Tuesday, October 07, 2008

As much as possible

出来る限り、傷つく人の少ない解決を目指したいと思っております」。これは、以前僕が抱えた大きな問題の解決のために、信じられないほど幅広くに力を注いでくださったある弁護士の言葉。僕は自分の力だけではどうにも解決できないような問題を複数抱えていたが、それらの解決のために尽力してくださって、すべて解決した。さらに僕は彼に複数のクライアントを紹介したが、その都度、個々の要件に対する姿勢に感服してきた。弁護士として白黒をはっきりとつけて行かねばならない立場にありながら、彼の姿勢は、常に裁判や調停までの時間を使って、いかに問題に関わる関係者の意識を変えていくかに向けられていた。彼のそうした姿勢を目の当たりにして、僕は、そもそも訴訟になるような問題というのは、そこに介在する人間たちの「我」の噴出に拠るところが多いのではないだろうか。冷静に常識に照らし合わせれば、訴訟にもならないようなことが何かのキッカケで「許せない」というものに変わってしまう…。また、起こってしまった事象でも、その背景にあるのは「我」が引き金になってることが多いようにも思う。例えば、後先を考えずに約束したり、金を借りたり…。そういうことを検察官から弁護士になった彼は、きっと嫌になるほど数多く見てきたのであろう。そして、そこから「なぜこの問題が起こったのか」を見る眼に、人間の持つ性としての「我」の存在を見分け、それを個別にできるだけ納得させながら、可能な限り問題を「小さく」していく努力をする。さらにどんなに状況が悪くても、彼は最後の最後までそういう姿勢を変えることがない。そんな彼から学ぶものは多い。それだけでなく、彼のように要件に向かう姿勢を持つには、そもそもの「徳」が必要なのだと痛感する。