Tuesday, August 30, 2016

「ただ祈るしかない」という感覚の喪失

東京に台風が近づいています。代官山も強い雨が降っています。それもまさかのリターン台風ということで、一度は南西に進んで熱帯低気圧になって消えてくれるかと思っていたら、西に追いやっていた親玉台風が消えた途端に元気を取り戻しつつ、すごい勢いでまた北上して…と、僕もこんな台風の軌道線とか今まで見たことがありません。今後の暴風雨などの被害が少なく済むことを祈るばかりです。

で、さらっと「祈るばかりです」と書きましたが、我々はいま、実際は高精度の測定データをリアルタイムに得て、さらにそれを専門家が過去の多くのデータ分析を元にして、今後の進路とか、どの程度の雨風になるかなどを知らせてくれますし、実際に、どんな状況なのかもサイトやアプリで知ることが出来ます。そして、その上で「どうか被害が少なくなりますように」と祈っている。

そう。このブログに書きたいと思ったのは、その「祈る」という感覚についてです。

いま、我々は科学の進歩の恩恵を得て、リアルタイムな観測データの処理・分析によって「状況の把握」ということでは、すごい把握を得ている状況です。ですから、今夜までにあの看板が飛ばされないかをチェックしとけとか、明日は電車が止まりそうだから今夜は帰宅せずに会社の近くに泊まるかとか、そういう行動面でのリスク回避の面では、本当に事故を軽減出来ていると思います。だけど、結局のところ我々は台風が過ぎ去ることを「祈る」しかありません。そして僕は、その祈るというときの感覚に意識が行くのです。

まだ科学が無かった時代にも台風は来ていました。雨雲レーダーも無く、宇宙から観測するというような視座も持ちあわせていません。実際に何が起こっているのかは、いま暮らしている場所の変化のみです。気圧計なんて存在していない時代を思ってみてください。気象の変化の可視化どころか数値化されたデータにもなっていないのです。でも、当時の人たち(言ってみれば我々の先祖たち)は、きっと何か、かすかな兆候を目と肌で感じ、そこから引き起こされた破壊と、それを目前にしつつ生き延びた恐怖と安堵の体験を自らの記憶に刻み「こういう時はこうなるから気をつけろ、こういう備えをするべし」と、それを知恵として来たのだと思います。

では、いま、我々はどうでしょうか。その「こういう時はこうなるから気をつけろ、こういう備えをするべし」は、NHKのニュースなどで繰り返し報道されています。その一方で、都市はの整備も進み、住宅建築も強固になり、いまどき台風が来るぞと言われて雨戸に板をクギ打ちする家なんてないはずです。つまりそれは「台風」という存在への身体性が、昔なら大変な事態の到来だったけれども、今は「うん、ちょろいね、まあ、このバーでもう一杯飲んでるうちに通り過ぎるんじゃね」ってぐらいになっているわけです(笑)。

そうして我々は、台風が来たと言われても極度の緊張を持たなくても良くなりました。その技術革新の恩恵に預かる一方で、では失われたものは何だろう…ということに、僕はどうしても意識が行ってしまうのです。

それを思うとき、僕の母親の兄にあたる伯父が、台風による山津波(今で言えば土砂崩れ)で幼少時に亡くなっていることを思い出すのです。その時に祖父は、芦屋の家そのものが流されると思って、家の上にあった松の大木のところまで避難して、自分と祖母と当時まだ幼かった伯父をロープでくくりつけたのですが、伯父だけ流されてしまったと聞きました。どれほどの悲しみを祖母が抱いたか計り知れませんが、その話は祖父からも祖母からも聞かされる事はなく、母も生まれたあとに一度だけ聞いたと僕に伝えてくれました。実際、数軒隣は家ごと流されたそうです。そしてそんな過酷な体験をした祖父は、その後、芦屋の家を災害に強い家に建て直し、芦屋市にも意見を言い、色々な治水実現にチカラを注いだそうです。

そのときに祖父・祖母が味わった、恐怖と痛みと悲しみと共にあった「台風」というものへの身体性を思うとき、もう何も出来ないというなかで「ただ祈るしかない」という意識というか祈りというか、その真剣白刃な瞬間というか…。そんな「祈り」というものを、持つべきものと言うわけではありませんが、そんな「ただ祈るしかない」というほどに追いつめられた状況にいる人の気持ちというか、そういうものへの思いやりの希薄化というか。もっと言えば「知らんがな」で終わらせている自分というか…。

そうした「ただ祈るしかない」という感覚を理解する能力というか、それを理解し、同じ危機感を心で共有するような感覚を、自分はいま失いつつあるのだな…。それでいいのかな、それは何かとても大切なものを気づかないうちに失っているのではないかな…と。そんなことを思うのです。自分はぬくぬくと安寧に生きていることへの満足で終わっていて、それでいいのかと、なにかそうした反芻が走るのです。

オチのないブログのエントリーになってしまいましたが、そんなことを思いつつ、迫り来る台風による強い雨を眺めています。

Thursday, October 08, 2015

Gmailからdocomo携帯アドレスにメールが送れない件

自分の環境では2015年9月11日から、GmailからDocomoの携帯アドレス宛にメールが送れなくなりました。これまで何度か同じような状況が発生していましたが、10月に入って、いよいよダメになり、今までは戻ってくるメーラーデーモン先生のお言葉が
Google tried to deliver your message, but it was rejected by the server for the recipient domain docomo.ne.jp by mfsmax.docomo.ne.jp.
でしたが、今回からは
Internal parse error: Illegal envelope To: address (not valid RFC5321 syntax): hoge..hage..@docomo.ne.jp
と(簡単に言えば、そのメールアドレスの文字列はメールアドレスとしては使えませんよってこと)変わりました。

これは、明らかにメールアドレスのローカル側の記述(@の手前の文字列)を厳格化した結果だと思われます。つまり、これまでGoogleは、ドコモやauのメールアドレスに多いRFCに準拠しないピリオドだらけのメールアドレスを、ローカルのキャリア対応策として許していたが、「もういい加減にしてね」ということで普通に準拠させたということでしょう。まぁ、あたりまえと言えばあたりまえの話で、いままで日本の携帯での、そのあたりがぐちゃぐちゃすぎ(スパム対策として機能してたという歴史もありますが)だったので、そうした混乱が整理されるという方向なのであれば僕としては何も文句はありません。

とはいえ、連絡が取れなくなるのは困ったもので(電話番号がわかっていればsmsで、facebookやLINEなどがあればメッセージというカタチで連絡はつくけれど)、どうにかその「hoge..hage..@docomo.ne.jp」宛にメールを届かせる手はないかと探ってみました。

その中でWikiにRFC5321に準拠させるには、メールアドレスのローカル記述をクオートすれば、ピリオドの扱いは制限がないということが分かりました。つまり、
hoge..hage..@docomo.ne.jp  を  "hoge..hage.."@docomo.ne.jp
とすれば、原理的には準拠していることになる。これで試してみたら、うまく行きました(笑)。

もちろん携帯メールアドレスに向けてのすべての問題にこの策が有効かどうかは分かりません。とりあえずdocomoドメイン宛にメールを出して、もし戻ってきたら、この手を試してみるという感じでしょうか。ちなみにこのクオートでの対策はPC上の、Chromeのブラウザ上で開くGmailで機能しています。その他のブラウザ上でのGmailとか、アプリのGmailなどは試してませんのであしからず。

Thursday, September 05, 2013

Timeless Time


目黒のブリッツギャラリーでの、セイケさんの新作の写真展が、いよいよ迫ってきました。会期は2013年9月14日(土)から12月7日(土)までです。今回の個展の写真は、すべてプラハで撮影されました。これらの写真が撮られた時、そのすべてを僕はセイケさんの背中越しに見ていましたので、感慨深い写真展となりそうです。 9月15日(日)の午後には、僕とセイケさんでトークイベントを行います。誰でも撮れそうなのに、決して撮れないセイケさんの写真。それは何なのかに迫ってみたいと思います。お時間がありましたら、ブリッツギャラリーのサイトからお申込みください。セイケさんとの、プラハでの撮影については、こちらに記しています。

Sunday, July 14, 2013

桐島ローランドという男


親友の桐島ローランドが、次の参院選に「みんなの党」の公認候補として立候補しました。

幅広い仕事を手がけているローリーですから、多くの関係者との間で調整が続き、最終的に、彼が候補者になることが決定するまで、ずいぶんと時間がかかりました。また、仕事関係のことだけではなく、家族のことも含め、ローリーは本当に悩んだことだと思います。身近にいるものとしても、その悩む姿を見守るしかありませんでした。

そんな中、出馬するとなったら公示日まで時間もないしということで、先に小暮徹さんにポートレートを撮ってもらうことにしました。いつもは撮る側のローリーが撮られる側になり、僕もローリーの後ろではなく小暮さんの後ろに立って、「これでいいかな」と皆と相談しながら撮影を終えました。

その撮られる側のローリーの姿を見ていて、こいつはすでに決意を固めている、ということが、僕にはわかりました。さらに、自分が特定の政党から出馬することで、どれだけの人に迷惑をかけることになるかを知っている。そういう迷惑を引き起こすのであれば、という逡巡が、彼の中で駆け巡っているのが僕にはわかりました。

しかしそれは「負けたらどうしよう」ということではありません。自分を今まで支えてきてもらった人たちへの恩義と、それを裏切ることになるかもしれない事への躊躇です。いま負っているものへの、この責任感の強さ。それこそが桐島ローランドのすべてではないかと僕は思います。そして彼の眼に、すでにこの時点で政治家の眼をしていると感じました。だから僕は友人として、彼をどこまでも応援しようと決めたのです。

さて、選挙も中盤戦から後半戦という時期になりました。そこで、なぜ桐島ローランドは、「みんなの党」から立候補したのか。それについて、誰もが納得した話を書いておこうと思います。

桐島ローランドは本当に社会を変えたいと思っています。そして、先に書いたように、責任感のとても強いローリーは、「政治ごっこ」や「評論家」ではなく、本当に社会を変えていくのに、一番重要なものは何なのかを何度も何度も自問したはずです。

原発をなくす。

たとえば彼が掲げる政策の最重要項目である「原発ゼロ」。このひとつの目標に向かって、何をどうして行けばいいのか。これまでも原発についてfacebookやtwitterでずっと問題を喚起してきたローリーが、政治家という、もう一段上の次元に立とうとしたとき、責任感の強いローリーは、それを「本当に実現出来すること」を選んだのです。そして、本当に実現するには何が必要か。そこを徹底的に深堀りし始めました。そこで出した結論は、次のことです。

国会に法案を提出する。

これ以外に原発をなくす筋道はないのです。あらゆる既得権益がもつれた糸玉のように絡み合った電力エネルギー分野。そこに向け、どれだけ声を上げても、何も変わらないのです。これは311以後を見れば誰でも理解できることです。

唯一の道は、法案を提出出来る政党に席を置き、そこで積極的に関係各所に働きかけ、どんなに抵抗されても道を切り開いていく。その道筋に、一筋の光明を見たからこそ、桐島ローランドは「みんなの党」から出馬したのです。

先の国会で「みんなの党」は議員立法20件、他党との共同提案36件もの実績があります。それに対して共産党は合計でたったの4件しか法案を出せていません。「まかせてください」と言うのは、「法案を出します」ということなのです。もっと言えば、法案を出せない政党の候補者や、無所属のひとりの候補者に、「まっとうなことを言っているな」と思って投票しても、その一票は生かされないのです。

イデオロギーでは原発はなくならない。実際の電力コストを計算したら、安いと思われている原発の発電による電力は公表値の倍以上になり、シェールガス等のコストとなんら変わらない。そうした実際の経済性を具体的に演説で話しているのは桐島ローランドだけです。

そして、法案を出すことをミッションにしているかどうか、他の立候補者の演説を確かめてみてください。

ローリーは、ずっと自立・独立して自分の生活を切り開いてきた人です。だからこそ「言ったことはなしとげる」。それしか彼の生きる道はなかったのです。そしてそれは今後も変わらないでしょう。組織に属するとなっても、その意味をしっかりと自分のものにする。そして切り拓き、かならず目標を越える。その彼が持つ強い責任感を理解していただけたらと思います。

桐島ローランド・オフィシャルサイトに、政策を掲げています。どうかご一読ください。


Tuesday, March 19, 2013

Magazine "F5.6" vol.7

枻出版社から発刊されているカメラ専門雑誌「F5.6(エフゴーロク)」の第7号が発売されました。

この号の巻頭6Pにわたって、セイケトミオさんがプラハでDP3 Merrillを使って撮影された写真が掲載されています。

これらの写真は、DP3 Merrillのカタログで使用したものと撮影データとしては同じもので、それをベータ版のPhoto Pro5.5でモノクロ現像されたものです。

これまでこのセイケさんの作品ページはライカのカメラで撮られてきましたので、被写体は違うにしろ、以前の号の、それらの写真との違いは、見る方が見れば十分に読み取れるのではないかと思います。

シグマ側に立って言えば、まったく遜色ない、というのが僕の正直な感想です。もっと言えば、価格で言えば10倍するカメラでなくても同等の「作品」が撮れるということを証明してしまった、ということにもなり、これはDPシリーズの持つポテンシャルを信じてきた僕にとってはとてもうれしい出来事です。

煙突の写真はスヴォルノスティの廃墟の中から撮影した光景です。この場所に辿り着くまでにセイケさんと人気のない階段を恐る恐る登ったのが思い出されます。見開きのクラシックカーとの出会いも衝撃的でした。8Pはプラハの写真の神様が降臨した瞬間。そしてカタログにはカラーで掲載した最後の石畳と犬のカット。どの写真も、そこにいた僕は特別な思いを持ってしまい、胸が熱くなってしまいますが、モノクロームに仕上げられた素晴らしい写真を、ぜひ書店で手に取って見て頂けたらと思います。

それから自分ごとになりますが、同じ号に僕へのインタビュー記事が掲載されました。タイトルは「シグマDP3メリルという独創性 シグマが私たちの心を掴むもうひとつの理由 INTERVEW / 福井信蔵氏(アートディレクター)」という仰々しいものですが、シグマの山木社長の意を汲みながら、これまで行なってきたシグマのカメラ群へのブランディング方針と、その具体化について語らせていただきました。インタビューでは、「宇宙でも書けるスーパーボールペンではなく、最高の鉛筆」という一言に色々な思いを込めました。セイケさんの写真と合わせて読んで頂けたらと思います。どうぞよろしくお願いします。

Saturday, March 02, 2013

SIGMA DP3 Merrill : Prague

巨匠・セイケトミオさんに、SIGMA DP3 Merrillのデビューを飾る写真をお願いし、訪れることになった古都・プラハ。「これが現時点での最新です」と受け取ったDP3をプラハで手渡し、2012年11月20日から、セイケさんとの撮影が始まりました。問題の多いベータ機という未完成のSIGMA DP3 Merrillを渡されながら、あれほどの写真を残してくださったセイケさんへの感謝は言葉に出来ません。

自分の撮影メモを紐解くと、初日にこう書いています。
「初日メモ。憧れの写真家と過ごした12時間。朝8時半にホテルに来てくださり、そこからラウンジで2時間、まずはカメラを手渡して設定の確認と機能の説明をひととおり。そのあとDPシリーズに与えてきたコンセプトと、今回のプロジェクトの大きなフレーム、さらに清家さんの写真から受けている印象を、もう一度しっかりと話す。彼の写真を自分なりに分析し、その特徴とも言えるところを彼に面と向かって言うのは正直ものすごく緊張する行為だった。話している間じゅう、無表情に近い顔、強い目線。怖い。最後までじっと僕の話を聞いて、「すべて了解。アタマに入れました」という返事。ほっとする。そして次にセイケさんの口から出たのは、どうやってそれを実現するかという、具体的なプランと、出来なかったときのリスクについて。なんという理解力。なんという器の大きさ。写真家となってからプロモーションのために写真を撮るのは初めてだ、と聞いたが、それは本当なのかと思う。この人にかけるしかないという思いが正しかったと、この段階で思える。本当にありがたい。奇跡に近いと思う」。
後で理解したことですが、「プロモーションのために写真を撮る」かどうかなどという以上に、セイケトミオという写真家が、写真を撮るための姿勢と集中力は遥かに高いのです。あたりまえのことですが、これまですべてご自分で計画され、実行され、撮れたか撮れなかったの結果もすべて自分の責任となる。そうした、厳しくも本物の、「写真家」の持つレベルの高さの片鱗に触れながら、この時はまだその高みを理解出来ていませんでした。

さらに、以前、このブログに記したことがありますが、ベータ機での撮影はストレスの多いものです。プラハでのカメラも様々な問題を抱えていました。でも愚痴ひとつ言わず、「シグマの山木社長が納得してくれる写真撮らなきゃねー」と、にこやかに僕に接してくださいました。さらに僕に向けて様々な会話を通して、「写真を撮る前に、撮る自分を正すことが先」ということを教えてくださいました。カタログとサイトに記した「純朴という名の郷愁」のエピローグは、まさにそういうかたちで頂いた言葉をそのまま載せたものです。

自分ごとで言えば、セイケさんが撮影される後ろから、僕も初めてのDP3 Merrillを使いながら写真を撮りました。枚数だけはそれなりに撮りましたが、セイケさんが撮られた写真を見せてもらうたび、自分がいかにダメかを思い知らされました。セイケさんは見るまでもなくダメなのをご存知なので「どんなの撮れたの」とは言わずにいてくださる紳士なのです。その優しさのおかげで、僕は変に落ち込まず、あきらめもせず、投げやりにもならず、何がダメなのかを毎晩考え、自分なりに工夫しながら撮ることを続けました。でも翌日、同じ場所でセイケさんが撮られた写真を見て「すげー」と同時にガックリ…。それを毎日繰り返しながら、言葉にしがたいものを得ました。

そしてプラハでの撮影から東京に戻ってきて、「あ、世界が違う」と感じました。うまく言えませんが、「東京」から出発したのに、戻った「東京」が、出発した「東京」ではない。そんな感じです。眼が変わってしまった。見えているものの中で「見るべきもの」がハッキリと認識出来ている。まさに別次元です。完全に世界が変わってしまいました。「写真と言うのは自分を写すことだ」というセイケさんの言葉を、一生懸命、咀嚼しようと努めただけで、世界が変わってしまいました。

でも、これは、まさに僕が望んでいたことなのです。まさかこんなカタチで自分事に出来るとは驚きでした。ここまで自分を大きく変えるとは思っても見ませんでしたが、僕がSIGMA DP3 Merrillで写真を撮ってもらえませんかとセイケさんにお願いした時、セイケさんに託した「写真の持つチカラ」を、まさか、というほどに我が身に得ることが出来た。そして「この思いは、写真に対して意識のある人にはきっと伝わる」という確信にも繋がりました。これほどの強烈な経験は、僕にとってはアヴェドンを育てたブロドヴィッチとの出会い以来でした。

セイケさんが写真に残している「セイケトミオ」とは何か。写真とは何か。それに気づくには、ただただセイケさんの写真に無の心で対峙すれば、誰にでもわかることだと思います。そこで「わからない」のは、見る人の心の問題であって、セイケさんのせいではない。見る側がすべてを脱ぎ捨て、写真家が撮った時の「心」に触れようとすれば、僕が得たものと同じものをきっと得ることが出来ると思います。

セイケさんから得たもの。それを言葉にするのには、もう少しかかります。それほどに僕にとってそれは大切なものなのです。言葉に出来る時がきたらまた書きます。


■このエントリーに用いた写真について : 最初の写真は、プラハでずっと見続けたセイケさんの背中です。セイケさんは街中でも常に集中されていますが、さらに「撮る!」と決めた瞬間から、ものすごい集中が始まることを、いつも背中から感じていました。それを撮りました。二枚目の使いこまれたチューバの写真は、僕はきっと一生忘れないだろうな、という僕だけの大切な思い出が深く重なっています。それを心に置きながら現像したものです。撮ったときは無心でした。でも後に深く学ぶこととなった写真です。