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Tuesday, August 30, 2016

「ただ祈るしかない」という感覚の喪失

東京に台風が近づいています。代官山も強い雨が降っています。それもまさかのリターン台風ということで、一度は南西に進んで熱帯低気圧になって消えてくれるかと思っていたら、西に追いやっていた親玉台風が消えた途端に元気を取り戻しつつ、すごい勢いでまた北上して…と、僕もこんな台風の軌道線とか今まで見たことがありません。今後の暴風雨などの被害が少なく済むことを祈るばかりです。

で、さらっと「祈るばかりです」と書きましたが、我々はいま、実際は高精度の測定データをリアルタイムに得て、さらにそれを専門家が過去の多くのデータ分析を元にして、今後の進路とか、どの程度の雨風になるかなどを知らせてくれますし、実際に、どんな状況なのかもサイトやアプリで知ることが出来ます。そして、その上で「どうか被害が少なくなりますように」と祈っている。

そう。このブログに書きたいと思ったのは、その「祈る」という感覚についてです。

いま、我々は科学の進歩の恩恵を得て、リアルタイムな観測データの処理・分析によって「状況の把握」ということでは、すごい把握を得ている状況です。ですから、今夜までにあの看板が飛ばされないかをチェックしとけとか、明日は電車が止まりそうだから今夜は帰宅せずに会社の近くに泊まるかとか、そういう行動面でのリスク回避の面では、本当に事故を軽減出来ていると思います。だけど、結局のところ我々は台風が過ぎ去ることを「祈る」しかありません。そして僕は、その祈るというときの感覚に意識が行くのです。

まだ科学が無かった時代にも台風は来ていました。雨雲レーダーも無く、宇宙から観測するというような視座も持ちあわせていません。実際に何が起こっているのかは、いま暮らしている場所の変化のみです。気圧計なんて存在していない時代を思ってみてください。気象の変化の可視化どころか数値化されたデータにもなっていないのです。でも、当時の人たち(言ってみれば我々の先祖たち)は、きっと何か、かすかな兆候を目と肌で感じ、そこから引き起こされた破壊と、それを目前にしつつ生き延びた恐怖と安堵の体験を自らの記憶に刻み「こういう時はこうなるから気をつけろ、こういう備えをするべし」と、それを知恵として来たのだと思います。

では、いま、我々はどうでしょうか。その「こういう時はこうなるから気をつけろ、こういう備えをするべし」は、NHKのニュースなどで繰り返し報道されています。その一方で、都市はの整備も進み、住宅建築も強固になり、いまどき台風が来るぞと言われて雨戸に板をクギ打ちする家なんてないはずです。つまりそれは「台風」という存在への身体性が、昔なら大変な事態の到来だったけれども、今は「うん、ちょろいね、まあ、このバーでもう一杯飲んでるうちに通り過ぎるんじゃね」ってぐらいになっているわけです(笑)。

そうして我々は、台風が来たと言われても極度の緊張を持たなくても良くなりました。その技術革新の恩恵に預かる一方で、では失われたものは何だろう…ということに、僕はどうしても意識が行ってしまうのです。

それを思うとき、僕の母親の兄にあたる伯父が、台風による山津波(今で言えば土砂崩れ)で幼少時に亡くなっていることを思い出すのです。その時に祖父は、芦屋の家そのものが流されると思って、家の上にあった松の大木のところまで避難して、自分と祖母と当時まだ幼かった伯父をロープでくくりつけたのですが、伯父だけ流されてしまったと聞きました。どれほどの悲しみを祖母が抱いたか計り知れませんが、その話は祖父からも祖母からも聞かされる事はなく、母も生まれたあとに一度だけ聞いたと僕に伝えてくれました。実際、数軒隣は家ごと流されたそうです。そしてそんな過酷な体験をした祖父は、その後、芦屋の家を災害に強い家に建て直し、芦屋市にも意見を言い、色々な治水実現にチカラを注いだそうです。

そのときに祖父・祖母が味わった、恐怖と痛みと悲しみと共にあった「台風」というものへの身体性を思うとき、もう何も出来ないというなかで「ただ祈るしかない」という意識というか祈りというか、その真剣白刃な瞬間というか…。そんな「祈り」というものを、持つべきものと言うわけではありませんが、そんな「ただ祈るしかない」というほどに追いつめられた状況にいる人の気持ちというか、そういうものへの思いやりの希薄化というか。もっと言えば「知らんがな」で終わらせている自分というか…。

そうした「ただ祈るしかない」という感覚を理解する能力というか、それを理解し、同じ危機感を心で共有するような感覚を、自分はいま失いつつあるのだな…。それでいいのかな、それは何かとても大切なものを気づかないうちに失っているのではないかな…と。そんなことを思うのです。自分はぬくぬくと安寧に生きていることへの満足で終わっていて、それでいいのかと、なにかそうした反芻が走るのです。

オチのないブログのエントリーになってしまいましたが、そんなことを思いつつ、迫り来る台風による強い雨を眺めています。

Saturday, March 05, 2011

魯山人「個性」

最近、iPhoneの電波が悪い時、無理してtwitterやニュースを読まず、なるべく青空文庫の古本を読むようにしている。そうしてみると、最新の情報を得る中での気づきよりも、何十年も積み重なった叡智から滲み出る言葉に触れる中に、はっとする事の方が増えている。

先週は、忙しく仕事を進めながら、合間合間に北大路魯山人の随筆を読んでいた。たとえば「だしのとり方」という短い文章の中にも気づきがあったし、「フランス料理について」では当時のフランス料理を「あほか。何もかもなっとらん!」と一刀両断に斬って捨てる中に、物事を判断する「幅」と「視座の高さ」という両面を教えられたように思う。その青空文庫で読める魯山人の随筆の中に「個性」というものがあった。

書き出しは「ある晴れた日の午後であった。と、こう書き出しても、芥川賞をもらうつもりで、文学的に書き出したのではないから心配しないでくれ給え。いったいこのごろは、何賞何々賞というものが多過ぎるようだ」と、いつもの魯山人節で、楽しく読み進めていたのだが、途中から、書かれていることの重さに気づいた。そして、読み終えて、冷や汗のような変な汗が出た。魯山人おそるべし。

型の大切さとは、積み重ねられた中にある本質を指す。そこには幾多の研究が繰り返され、少しづつ少しづつ「これで良い」とされてきた物語がある。僕自身も「伝える」という技術において、基礎という意味での「型」の大切さをずっと説いてきた側だ。それを正しく踏まえてこそ、という思いは今も変わらない。しかし魯山人は、明瞭に「型にはまって満足するな、精進を怠るな」とここで語っている。料理の世界で言えば、先に書いた「フランス料理について」で魯山人が指摘した部分を反省し、現代のフランス料理が生まれ育まれて来たことは明らかだ。

ではデザインにおいてはどうだろう。「型にはまって満足するな」という強い意志が、今のコミュニケーションデザインの世界にあるだろうか。はたして新しい「伝える技術」を開発しているのはデザイナーだろうか。新たなデバイスでの表現が、さも最新の「伝える技術」を開発しているように勘違いしていないだろうか。OSやメディアという「型」の中で「作法」として規定された状態の中に、デザイナーは安住しているだけではないのか。料理人ではなく美食家である魯山人の指摘をまっすぐに受け止めるとするならば、デザイナーは、本来、もっと高い視座を持って、「先端技術」の方向を指し示す立場に、自らを昇華させていくべきなのではないか…と、僕の中での連想は延々と連鎖し続けた。

以下に汗が出た部分を引用しておく。また、読みやすくするために勝手に改行を加えている。この「個性」の全文は青空文庫で読むことが出来る。僕が勝手に冷や汗するような読み方が正しくないのはわかっている。でも読む人が読めば、僕と同じような変な汗が出る気もする。さらに最近の若い人たちの中での「個性」とは何かのところで、どうでもいい議論の多い中、この一文に触れておくのはいいことではないかと思う。

 「わたしはどこへ行っても、子供におじぎをされますよ。どこへ旅行しても、わたしは子供たちの目からは学校の先生に見えるのですね」

 わたしは感心したり、寒心したりした。先生、という型にはまりこんでしまったひとを、わたしは立派だと思ったが、同時に大変さみしく思った。型にはまったればこそ、型にはまった教育を間違いなくやれるのだ。だが、型にはまってしまっているがために、型にはまったことしかできないのだ、と、思った。

 料理だって同じことだ。型にはまって教えられた料理は、型にはまったことしかできない。わたしは、決して型にはまったものを悪いというのではない。無茶苦茶な心ない料理よりは、まだ型にはまったものの方が見苦しくない。

 大学を出ない無知よりは、同じ大学を出た無知の方がましだ。だが、大学に行っても自分でやろうと思ったこと以外はなにも身につかないものだ。本当にやろうと思って努力するひとにとって、学校は不要だ。学校は、やらされねばならない人間のためにある。自分で努力し研究するひとなら、なにも別に学校へ行かなくともよい。

 とはいうものの、習ったから、自分でやったからといって、大きな違いがあるわけでもない。字でいえば、習った「山」という字と、自分で研究し、努力した「山」という字が別に違うわけではない。やはり、どちらが書いても、山の字に変わりはなく「山」は「山」である。

 違いは、型にはまった「山」には個性がなく、みずから修めた「山」という字には個性があるということである。みずから修めた字には力があり、心があり、美しさがあるということだ。型にはまって習ったものは、仮に正しいかも知れないが、正しいもの、必ずしも楽しく美しいとはかぎらない。

 個性のあるものには、楽しさや尊さや美しさがある。しかも、自分で失敗を何度も重ねてたどりつくところは、型にはまって習ったと同じ場所にたどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ。

 しかも、個性のあるものの中には、型や、見かけや、立法だけでなく、おのずからなる、にじみ出た味があり、力があり、美があり、色も匂いもある。

 いや、習いたければ習うもよい。習ったとて、やはり力を、美を、味をと教えてくれるだろう。気をつけねばならぬことは、レディーメイドの力や美を教えこまれぬことだ。型から始まるのも悪くはないが、自然に型の中にはいって満足してしまうことが恐ろしい。

 型を抜けねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。

 同じ型のものがたくさん出ても日本は幸福にはならぬ。山あり、河あり、谷ありで美しいのだ。しかも、山にも、谷にも、一本の同じ形の木も、同じ寸法の花もない。しかも、その花の一つ一つは、初めはみな同じような種から発芽したのだ。芽を出したが最後、それらのものは、みなそれぞれ自分自身で育ってゆく。

 習うな、とわたしがいうことは、型にはまって満足するな、精進を怠るなということだ。

 この本を読んだからとて、決して立派になるとはかぎらない。表面だけ読んで、満足してしまってはなお困る。実行してくれることだ。そして、それぞれに研究し、成長してくれることだ。読みっぱなしで分ったようなつもりになってくれては困る。

 それでは、個性とはどんなものか。
 うりのつるになすびはならぬ――ということだ。

 自分自身のよさを知らないで、ひとをうらやましがることも困る。誰にも、よさはあるということ。しかも、それぞれのよさはそれぞれにみな大切だということだ。


出典:底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所 2008(平成20)年4月18日第1刷発行

Friday, June 05, 2009

Sigma DP2: Catalog Shooting

アートディレクターという立場にある僕が、プロのフォトグラファーを使わず、カタログやWebサイトなど、DP2のコミュニケーションに使う写真を、なぜ自ら撮影しているのかについて、もう、会う人、会うひとから聞かれています(笑)。なので、もっと別のことを書こうと思っていたのですが、今日は、その疑問に先に答えちゃおうと思います。

結論を先に言うと、「機材としての未完成度合いが半端じゃない」という現実と、DP2の良さを伝えるには「プロを使わずに撮影した写真でなければならない」というコミュニケーションコンセプトを立てたことによります。それらについて書いてみます。

僕が、広告などの制作のために普段から撮影を依頼するプロのフォトグラファーたちは、プロとして当然のことなのですが、実際に撮影する時点で、いかに問題を起こさず、いかにスムーズに撮影を行うかに対して、常にとてもナーバスになります。これはスタジオで撮影を行う場合でも、ロケに出る撮影でも、まったく同じです。彼らは、普通なら起こらない不測の事態にも対応できるように万全の態勢を整えます。カメラマンが持つスタジオという場所は、言い換えれば、そういう「不測」への解決策が凝縮された場所です(貸しスタはそうではありません)し、ロケ地に乗り込む場合でも徹底した準備が普通です。

それはプロとして「撮れなかったでは済まされない」という責任感の裏返しでもあるので、アートディレクターとしては、その徹底した準備によって「そこは頼むね」で済ますことが出来る信頼に足る最低条件だったりします。おそらくそれらは、彼らが今日に至るまでに経てきた、数々の「自らの準備不足のために招いてしまった結果としての冷や汗、時には失敗、時には出入り禁止」に遭遇してきた「痛い経験」を元に組み立てられているようで(彼らは失敗の経験を語りたがらないんですけどね)あり、まさに言葉通りに万全を期するのが常識。中でも最も重要なのは、肝心のカメラとレンズとストロボの「機材管理」と、どのカットがどういう状況(露出や色温度)で撮影したかを記録し、現像段階で問題を起こさないようにするための「撮影管理」であり、彼らのアシスタントは、どんなにのどかなロケ地に来ても、常に眉をしかめて(笑)ミスがないように集中するのが普通です。

そういうプロのチームに、機材として「どんな問題が発生するのか使ってみないとわからないカメラ使ってね」の上に、「フルデジタルの環境を現地に持ち込んで、そのつど現像してみないと、どう撮れたのかわからないんだよね(さらにテザー環境はない)」というのが、僕が抱えている案件の現実なわけです。あまりにも不確実要素が多い、いや、多いというよりも、逆に確実な要素は皆無に近い(笑)、という状況に、彼らのようなプロのチームをアサインして、「でも、プロとして完璧な写真を撮ってね」という依頼は、かなり無茶な依頼以外のなにものでもないわけです。

もちろん彼らはプロですし、仲間ですから、「厳しいけど、やってよ」と強く頼めば、「うん、じゃぁ、やれるだけやってみるか」と引き受けて、一緒に暗中模索の撮影に取り組んではくれます。しかし、僕は、撮影を彼らに頼むか、自分で撮るか、悩みに悩み、そのどちらにするかを、最後の最後まで考えて、最終的に「自分で撮るしかないな」という判断に至りました。プロのフォトグラファーに「何が起こるかわからない機材を使え」というのが現実ですから、過去の経験から、彼らが抱えるストレスも予測できますし、実際に僕自身が、アートディレクターとして撮影現場に立ったとき、そこに発生するストレスの度合いを考えると「到底、頼めないな」と結論づけたわけです。

ベータ機を使うストレスは筆舌に尽くし難いものがあります。ものすごいです。現場で何度も胃がよじれるような緊張感を味わいますし、ホント、禿げそうになります(笑)。アートディレクターとして「こういう写真が撮りたい」という、カメラが持っている性能を最大化した写真のイメージも、実際の実機を動かしてみないと、それを実現できるのかどうか、その場になってみないとわからないわけです。事前準備を徹底する彼らの常識からすると、そんな曖昧さを残したままアートディレクションされたら、その場その場で臨機応変に対応していくところにも神経を使うことになるのは明白。さらに僕自身も、自分が抱えているストレスに加えて、彼らが抱えるストレスまで受け止めて、彼らの抱える不安をどこまで現場で解消できるだろうか…と考えると、もう全部、まるごと自分で背負っちゃえ、という感じで、かなりの覚悟は必要でしたが、自分で撮影することに決めました。

誤解のないように念のため記しておきますが、僕の手元にDP2の実機が届いたのは、ロケに出発する前日です。それは発売予定日までのスケジュールの逆算で決まります。詰めに詰めたギリギリの予定として、この日からこの日の間に撮影を行い、それらを使ってカタログを制作し、いついつに印刷出稿…、という予定を先に立て、ロケに使うためのDP2の実機は、それ用にシグマの会津工場で組み立てられ、ロケ出発直前までシグマ本社の技術部門でファームウェアのチューンナップが続けられたものが手渡されるわけです。

つまり「いまの時点で、これが最も製品版に近い実機です」というものを受け取った翌朝には、僕は機上にいるわけです。飛行機の中で操作系はひととおり身につけますが、もちろんその時点でマニュアルなんて存在しません。ですから僕もロケ地に到着してから初めて本格的にDP2を使い始めるわけです。そこからは、丸一日かけて、「アタマの中で想定していた絵」と、「実際に撮ってみるとこうなんだ」というギャップを順番に埋めていきます。「DP2の最も優れた部分が何なのか」は、シグマさんの一緒にコンセプトを詰めてきていますから、概念としてアタマには入っています。それを実際にどう撮れば表現できるのか、というところを検証していくわけです。画角や被写界深度のニュアンスを掴むには、やっぱり一日必要なんですね。そして、だいたいこう狙えばこういう感じの絵が撮れるんだなという感覚を、身体に覚えさせるのにもう一日使います。この段階では、色とか全然気にしていません。カメラとレンズが作る世界観を確かめることに費やします。そうした検証と操作系の慣れを大急ぎで行い、その後に、現地のコーディネーターと共にフルに動き始める、というような過ごし方をするわけです。その状況を「フォトグラファーとして肩代わりしてよ」と、仲間のプロの彼らに頼むのは「ちょっと酷すぎる」という状況なわけですね。

さらに、今回の撮影に使ったDP2のベータ版は、さまざまな挙動を最も高速化したという状態で受け取ったために、バッテリーの持ちが極端に短いという個体でした。フル充電したバッテリーを入れてもあっという間に電源が切れるわけです。実際にはバッテリーを完全に使い切っているわけではなく、あるレベルになると電源不足で自動的にカメラが終了する、という設定値が高かっただけ(その使い切ったバッテリーをDP1に入れると全然フル充電で何日も使えました)なのですが、とにかく手にしているDP2のベータ機はバッテリー1個で1時間ぐらいしか持たないわけです。これはもう撮影している立場からすると、「ありえねー!」っていう状況です。毎晩、15個のバッテリーを確実に充電し終わるまで寝ないで翌日に備え、かつ、充電器を二台ロケバスに積んで、撮影場所の近くにコンセントがないかを、常に探して充電し続けました。撮影中は常に右ポケットにバッテリーを5個ぐらい入れています。構図を決めている最中でも、突然「ぷちゅーん」と切れちゃうので、即座に底面を開けてバッテリーを入れ替え、使い切ったものは左ポケットに入れ換えていくっていう感じです。さらに、そうして切れてしまうと、設定値が全部デフォルトに戻ってしまうというバグもあり、非常に強いストレスを抱えながら、被写体に向かって行くわけです。

話が長くなりましたが、そんな風に悩んだ末、彼らには頼まず、今回も自分で撮ると腹を決めて、雨季のインドネシアを駆け回りました。

もうひとつ、広告を撮影しているプロのフォトグラファーをキャスティングせず、自分で撮ろうと決めた理由の、最も決定的な要因は、「ユーザーと同じ状況で撮る」と決めたことです。つまり、「最終的に製品として発売されたあと、このカメラを使うユーザーと、まったく同じ状況で写真を撮らなければならない。写真にギミックがあってはいけない。コミュニケーションに不信感を抱かれるような写真の作り方は絶対にやってはいけない」というものです。

インドネシアでの撮影も、現地のコーディネーター(今回は「課長・島耕作」のロケを段取りしたスタッフが頑張ってくれました)が、「え!それだけデスカー!」と驚かれました。彼らからすれば、ありえない撮影隊です。普通なら存在する複数のジュラルミンケースも、ハンギングされた衣装もありません。機材はDP2と三脚だけ。ヘアメイクも衣装も一切入れていません。細々したことを担いながら僕を助けてくれるスタッフはいますが、僕は片手にDP2を持っているだけですから、撮影コーディネーターからすれば、普通のツーリストのオッサンにしか見えません。レフ版も一切使わず、現場での光の補正なども一切行いませんでした。すべて「そこにあるがまま」で撮影すること。それをミッションとして撮影しました。

さらに実際にカタログに使用した写真は、RAWデータを専用現像ソフトであるPhoto Pro 3.5で現像した以外、一切手を入れていません。コントラストやシャープネスもPhoto Pro 3.5だけで調整。すべて等倍Tiffデータで書き出し(見開きページは倍サイズ)。そのままCMYKに変換して印刷しています。Photoshopでのレタッチやシャープネス補正は一切していません。同時に、発売前にサンプルギャラリーを公開し、DP2で撮影した見本を見て頂けるように準備しました。さらに発売後は、そのまま使っているということを証明できるように、カタログで使用した写真を、僕のFlickrのサイト上で等倍サイスで公開し、さらに現像パラメータがわかるように、Exifも含め、すべてを見て頂けるようにしました。

つまり、サンプルギャラリーや、カタログに印刷する写真は、広告的に謳っていることを強調するために後処理で手が入れられた写真ではなく、実際に発売後のDP2を手にした方々が撮影される状況と、まったく同じ状況で撮影しなければウソになってしまう。だからこそ、現地のコーディネーターが「観光客っぽいっすね」と呟いたままの撮り方で撮影する、というスタイルこそが重要、という意識で撮影を行いました。正直、アートディレクターという立場からはプロに頼みたかったです(笑)。でも、シグマのブランドディレクターという立場、そしてDP2のクリエイティブディレクターという立場からDP2というカメラのコミュニケーションを考えたとき、逆に「プロ臭さ」を排除するべきだと考えたわけです。そしてこれはシグマ社の持つ「誠実さ」の具現化でもありました。

色々困難もあったわけですが、自分が取り組んだ結果として、沢山の方々から「カタログの写真を見て買うのを決めました」とか、「あんな写真が撮れるならと思って購入しました」といったメールやflickrへのコメントを頂けたことをうれしく思っています。すべてはシグマ社をはじめ、数多くの方々の心強いサポートのおかげでした。ありがとうございました。

Monday, June 01, 2009

ジャチェック・ウツコの言葉

ジャチェック・ウツコは、ポーランドのグラフィックデザイナー。東ヨーロッパの多くの新聞をリデザインして数多くの賞を受賞しただけでなく、購読数を100%まで増加させた彼が「デザインは新聞を救えるか?」と題して「TED」で行ったスピーチ。



新聞は今にも死絶しそうです。読者は古い情報にお金を払いたがらず、広告主もそれに従っています。それよりも携帯電話やパソコンの方が、新聞の日曜版より、よっぽど手軽です。さらに森林も保護しなければならない。これではどんな産業もダメになってしまうでしょう。ですので「新聞を救う術はあるのか?」と質問を変えるべきです。

新聞の将来について、幾つかのシナリオが考えられます。ある人は「無料であるべきだ」と言ったり、「タブロイドか、もっと小さなA4サイズがいい」、「地域コミュニティごとに発行する地方紙がよい」、「小さなビジネスなどニッチを狙うべき」と言う。しかし、無料にならずとも、とても高コストになってしまう。「新聞は意見主体であるべきだ」、「ニュースは少なく、見解を多く」とか、「出来れば朝食のときに読みたい」、「後の時間は通勤の車の中でラジオを聴くし、会社ではメールチェック、夜はテレビ」…。どれも良さそうに聞こえますが、どれも時間稼ぎにしかなりません。長い眼で見たら、新聞が生き残るべき実際的な意味はないと思うからです。そこで我々に何が出来るのでしょうか?

私はこうしました。20年前、ポニーエというスウェーデンの出版社が、旧ソ連圏で新聞を始めました。そして数年後には中央と東ヨーロッパで複数の新聞を発行するようになりました。それらは経験の浅いスタッフによって運営され、レイアウトなど「見た目」を重んじる文化がなく、かける予算もありません。多くの新聞にはアートディレクターすらいませんでした。私は新聞のアートディレクターになろうと決めました。それ以前、私は建築家で、祖母に一度「お前は何で生計を立ててるの?」と聞かれたことがあります。私は「新聞のデザインをしているんだ」と答えました。「デザインするものなんてないじゃない。つまらない活字だけ」。彼女は正しかった。私はフラストレーションを貯めていました。

ある日、ロンドンに来て「シルク・ド・ソレイユ」のショーを見た時、大発見をしたのです。「こいつらは『気味の悪い、しけた興行』というものを、考えられる限り最高の『パフォーマンスアート』に仕立て上げた。だから『つまらない新聞』でも同じことが出来るかもしれない!」と思ったのです。そしてその通りにしました。一つ一つデザインし直したのです。一面が我々の特徴となりました。私が読者と近い距離で対話するための私的なチャンネルでした。ここでチームワークや協働について話すつもりはありません。私のやり方はとても利己的でした。私はアーティストとして主張がしたかった。私なりの現実の解釈を示したかった。新聞ではなく、ポスターが作りたかった。雑誌ですらない、ポスターです。我々は文字の見せ方やイラストや写真でも常に実験していました。とても楽しみました。

そしてそれらはすぐに結果をもたらし始めました。ポーランドでは「カバーオブザイヤー」に3年連続で選ばれ、ラトビア、リトアニア、エストニアなど、中央ヨーロッパでも評価されました。私たちの秘密は、特徴のある一面だけではなく、新聞全体を、ひとつの作品として扱っていたことです。まるで楽曲のように、リズムや起伏があります。デザインは、これを読者に体感させる責任があるのです。ページをめくりながら、読者は色々なことを感じる。私はその体験に責任を持っているのです。

私たちは、見開きをひとつのページと捉えています。それは、読者がそのように感じているからです。このロシア語の新聞の見開きは、スペイン最大の情報デザインアワードで受賞しました。中でも一番は「ニュースデザイン協会」の賞でした。ポーランドでこの新聞をデザインし直してから、一年もたたないうちに、世界一素晴らしいデザインの新聞となったのです。二年後にはエストニアの新聞でも同じ賞を頂きました。すごくないですか?もっとすごいのは、これらの新聞の購読数が、どんどん増えていったことです。

たとえば、ロシアでは1年後に11%増、リデザイン後3年目には29%増です。ポーランドも同様で初年度13%増、3年目に35%増加しました。このグラフを見てお分かりの通り、何年もの停滞期のあと、リデザインするや否や、新聞は「成長」し始めました。中でも1番のヒットはブルガリアの、100%増でした。これはすごかった。

デザインがこれを成し遂げたのでしょうか?そうではないのです。デザインはプロセスの一環に過ぎません。私たちがとったプロセスは、外見を変えるだけではなかったのです。商品を完全に改良することでした。私は建築における「機能」と「カタチ」の鉄則を、新聞の「コンテンツ」と、「デザイン」に応用したのです。さらに、その上に戦略を乗せました。

最初に、大切なことを思考します。「何のためにやるのか?目標はどこにあるのか?」そこから「コンテンツ」を調整していきます。その後、2ヶ月後ぐらいにデザインを始めます。ただ原稿を求めるだけでなく、なぜこんなにビジネスの質問をしてくるのだ?と最初は上司たちはすごく驚きました。でもすぐに、これがデザイナーという役割なのだと理解されました。プロセスの最初から最後まで関わることです。

ここから得られる教訓とはなんでしょう?まず最初の教訓は、デザインは商品を変えるだけでなく、ワークフローを変えることが出来るのです。つまり、会社のすべてを変えてしまえる。ブランディングも会社そのものも変えることが出来る。さらに、あなた自身も変えてしまえるのです。誰がそう出来るか?それはデザイナーなのです。デザイナーに権限を与えてください。

二つ目の教訓。こちらのほうが重要です。皆さんも私のように貧しい国に住み、小さな会社の、つまらない部署で働きながら、予算も人材も、何もないところで、それでも自分の仕事を最高のレベルに持っていくことは可能なのです。誰でもできます。必要なのは、ひらめきと、ビジョンと、決断力だけです。そして、ただ「良い」だけでは足りないと覚えておくことです。ありがとうございました。


このプレゼンテーションを数十回も繰り返して見ている。何度見ても、熱いものが自分の中から立ち上ってくる。デザインという手法を携えてコミュニケーションに関わりながら、逃げ道を確保し続けていた自分を見返り、企業に関わる自分の立ち位置を根本的に変えよう!と決意した日のことを思い出す。自由を求めるところに存在しなければならない責任。

Thursday, May 21, 2009

Sigma DP2: Shooting Style

前回のエントリーでは、DP1 / DP2というカメラが持つ「独自性」について、比較的、技術的な側面から書いてみました。いま読み返してみると、言い足りていないところが沢山あることに自分でも気づきます。でも、そうした技術面は、maroさんのサイトで行われている徹底的な検証と、そこから導き出されている多様なリポートを読んで頂いたほうが間違いないので、僕が技術面について語るのは、今ぐらいのレベルにとどめておこうと思います。ただ、DP2に搭載されているFoveon X3センサーに関しては、あまり理解されていないようなので、また機会を改めて、書いてみたいと思います。

さて、今日、このエントリーで書こうと思うのは、DP1 / DP2が持つオリジナリティの、もう一つ重要な側面である、「写真を撮るスタイル」についてです。

カメラ売り場に行くと、「ぱっと取り出して、ちゃちゃちゃっと写真を撮る」というスタイルの延長線上にある「カンタン!お手軽!綺麗!失敗しなーい!」というデジタルカメラが、びっくりするほど多種多様に売られています。薄くてカッコいいカメラ。ブログにそのままアップできるカメラ。少々暗い場所でも綺麗に撮れるカメラ。夜景に同期して適正なストロボ発光が得意なカメラ。旅行先で充電の心配がないバッテリー消費の少ないカメラ。高速連射が出来るカメラ。ありえねーっていうぐらいにズームアップが可能なカメラ。さらに、顔を検出してピントを外さないカメラ。さらに笑顔を見つけてシャッターを切るカメラとか、その便利さや付加的機能の多様さには、もう、本当にすごい進化だなぁと思います。ちなみにDP1にもDP2にも、上記のような付加的な機能は一切ありません。短焦点レンズで、ズームも出来ない。カメラは勝手な補正をしませんので、ちゃんと失敗写真を記録します(笑)。でも、僕はこの「失敗できる」という素直さも、実はDPシリーズの大きな独自性だと考えています。

ちなみに僕もDP1 / DP2 以外に、スナップ用にCanonのPowerShot G9と、富士フイルムのFinePix F200EXRを持っていて、用途に合わせて使っていますが、まさに「カンタン!キレイ!失敗なし!」のパフォーマンスを発揮してくれます。友人たちが僕の家に集ってのホームパーティや、知人が開く展覧会のレセプションのような、とにかくパチパチと記録として撮る、というようなシーンでは、DP1 や DP2はまったく出番がありません(笑)。つまり、僕にとっては、DP1 / DP2と、PowerShot G9やFinePix F200EXRは、まったく別のカメラカテゴリーに属するものとして位置づけているわけです。つまり「作品」を撮るための一眼レフの代わりになるカメラと、スナップカメラの違いのようなものです。

たとえばファッション撮影というケースで言えば、G9やF200EXRは、あくまでも「ロケハン用」のカメラでしかありません。情景だけでなく、回りの状況や、太陽の角度や、本番撮影で障害になりそうな要素の記録など、とにかく気になったものを、JPEGモードで、どんどん撮って、後でそれらをパソコン上で並べ替えたりしながら、撮影する順番を決めたり、コーディネーターやスタイリストに細かな依頼を行ったりするのに便利な道具、という感じでしょうか。でも、それらのスナップカメラでは、「作品」は作れないのです。コントラストを自動で調整するようなカメラでは、意図した写真の構成は台無しになってしまいます。また、「何を撮っても同じような写真」と感じるような、立体感のない写真になってしまうカメラは、「手軽に記録としてぱちぱちと撮る」という用途にしか使えません。

そういう僕も、CanonのPowerShot G9を買ったあと、G9を使って自分なりに納得できる写真が撮れないかと、色々と設定を変えながら撮ってみました。CanonのRAWモードであるCR2で撮影し、Canonの専用現像ソフトも使って、色々と試しましたが、結局のところDP1で得られるような「作品性」を、G9では作ることが出来ませんでした。

この「作品性」というものが何なのか。とても抽象的な言い方なのですが、この言葉しか見つけられません。主観的であり、基準も曖昧なものです。ただ、ひとつだけ言えることは、DP1 / DP2を使った写真のほうが、「なぜ撮ったのか」という理由が、写真から感じられるのです。構図や、質感や、露光の焼き具合といった、「絵」としてのテクニカルなことを超えたところで、自分でも後で気づくような「何に惹かれたのか」の理由や、「そのときに感じていたなにか」が、写真から伝わってくるかどうか。その、僕なりの基準でしかない「作品性」という感覚に、今のところ最も応えてくれるのが、DP1/DP2というカメラで撮った写真に多いのは事実です。自分の撮った写真を、自分の「作品」としてどうなのか、という視点でみたとき、実はDP1で撮影したものの方が、納得の行くものとして残っているのです。

そう感じる理由のひとつは、おそらく「見たままのものが、そのまま写っている」からなのではないか、と思います。「そのまま写っている」という定義も曖昧なのですが、そうとしか言えないのです。なぜなら、X3FというフォーマットのRAWデータを、専用の現像ソフトを使い、シャッターを切った、そのときの光の具合を思い出しながら色温度やコントラストを調整すると、撮った場所の温度や湿度、さらには風や臭いのようなものまでが、写真が語り始めるのです。これはデジタル一眼レフカメラも含めて、他のカメラを使っての撮影では、経験できない瞬間です。DP2で撮った写真を現像している時間は、まるでタイムマシンに乗って、撮影地に戻って実際の光景を目前にしているような錯覚を覚えるわけです。それが何によってもたらされているのかは正直わかりません。センサーが違うから、という理由だけで、そういう感覚が喚起しているのかどうかは、僕にもわかりません。でも、DP2を使っている方には、僕と同じような感覚を持った方がおられるのではないでしょうか。いずれにしろ、僕の中での「作品性」というものを、DP1/DP2は確実に具現化するだけの力を持っていることは確かなわけです。

さて、もちろん僕はフィルムの時代から一眼レフカメラを使ってきました。デジタル一眼レフもCanon EOS 10Dの時代から、色々と使ってきていますので、職業はフォトグラファーではありませんが、ある程度のものは撮ることが出来ます。でも、やっぱり一眼レフカメラは「デカい!」んです(笑)。それに「重い!」です。さらに一眼レフカメラには「ものすごい存在感」があるわけです。「一眼レフカメラを肩から提げて歩く」って、もう、「撮るぞ!」っていうスタイルそのもの。街でもそういう方々を見かけますが、ぶっちゃけ言ってお洒落じゃないんですよね(笑)。もっと言えば、お洒落なファッションと、その一眼レフが持っている存在感が、調和していない感じになってしまうわけです。

これは、僕は、一眼レフカメラの持つ、ある意味で「致命的」な要素だと思っています。だって、ぶっちゃけ変ですもん(笑)。たとえば旅先で、プラダのキレイなプリント柄のワンピース着ている女性が、重火器みたいな一眼レフカメラを肩から提げて歩いているって、それがご本人のファッションとしての自己表現なのであれば、それはそれでいいのですが、やっぱり違和感を覚えざるを得ません。

自分も同じ経験を何度もしています。たとえばパリやNYCなどの街に行けば、やはり高級ブティックにも行くし、普段とは違うノーブルなレストランで食事を取るわけで、当然、身に纏う服や靴にも気をつかい、それなりにリュクスなスタイルになります。その格好で、一眼レフカメラを肩から提げて歩くのは、正直、恥ずかしい。だから、一眼レフカメラはショルダーバッグに入れて持ち歩くわけですが、「場を楽しむ」という意識のほうが、「撮る」という気持ちに勝ってしまうので、「お洒落しながら」+「楽しみながら」+「写真を撮る」となると、一眼レフは使い勝手が悪いわけです。

その点では、DP1とDP2は、明らかに持ち歩きやすく、同時に「いつでも作品としての写真が作れる」という安心感があるので、最近では、一眼レフを持ち歩く必要を感じなくなってしまいました。でも、よく考えると、これは自分にとって大きなスタイルの変化だなと思うわけです。どこでも、どんな時でも、どんな場所でも「作品」が作れる。これは大きいです。明らかに僕の撮影のスタイルを変えてしまっている。これは、DP1/DP2の持つ、大きな「独自性」のひとつではないでしょうか。

ちなみに、このエントリーにつけた写真は、いずれもDP2のカタログのためにインドネシアで撮影した一連の写真の中から選びました(サイズは半分の大きさに縮小しています)。しかし、どれも自分の美意識からすると「作品性」の低いものです。カタログに使用するかどうかの基準では、明らかにセレクトから外れるレベルの写真ばかりなのですが、自分にとっては、どの写真も「何を撮ろうとしたのか」や、その場の音や風などが、記憶の中で立ち上がってきます。それは、ふと「なんか撮れそうなモチーフだな」と気づいたり、それからじっと被写体を見て「どう構成したらいいかなぁ」と、カタチや色や状況をじっくりと観察する。その「被写体に向きあい、考える時間」が、自分の「作品性」のようなものを醸成しているような気もしています。そしてそれは文中に書いたような「付加的な便利さ」を、ある意味で潔く持たないDP1やDP2を使うからこそ、その、気づく力、考える力、そして写真を練る時間に結びついているのかもしれません。写真って面白いですね。

Tuesday, May 19, 2009

高田明の言葉

マーケティングでもそうだが、ひとつの事例があって数字がある。すると「こういうデータがあるからこう動くだろう」と人間は普通考える。でもそれは、あくまでも過去の数字だ。参考にはすべきだが、それに囚われてはいけない。その数字から直近の変化をどう読み取るかが大事なのであって、数字やデータに縛られると変化に対応できなくなる。

ビジネスコンサルタント向けの季刊誌「Think!」の最新号の特集は「目指す結果を出すコミュニケーションの法則」というもの。この号に「ジャパネットたかた」の高田明社長のインタビューが掲載されている。彼の記事以外は、ほとんどが数多くのビジネスコンサルタントたちの色々なケーススタディやメソッドを語っている記事なのだが、この号の中では、高田社長へのインタビュー記事が、それらを完全に吹き飛ばす存在感を放っている。異質だが最強。このインタビューは、上に引用した言葉だけでなく無数の示唆が読み取れる素晴らしいものだ。理屈を超える現場の強さを実感する。

Sunday, May 17, 2009

Sigma DP2: Originality

今日(もう昨日になりましたね)の午後、銀座のアップルストア3階のシアタールームで、「アートディレクター 福井信蔵が語る SIGMA DP2の世界」という講演を行いました。14時に始まった段階で、すでに立ち見の方がおられるような盛況で、ちょっとどきどきしながらの2時間。心の広いシグマ社の山木社長のおかげもあって、楽しい時間が作れたような気がしています。銀座まで来てくださったみなさん、ありがとうございました。プレゼンに使った資料は、350dpiの印刷用の高解像度データをそのまま使ったPDFですので、そのままだと460MBもあります。150dpiぐらいまでダウンサイジングすれば、半分以下になる(それでも150MBかー)と思うので、また作業して、見て頂けるようにしたいと思っています(ちょっと時間ください)。

さて、次はコンセプトというか、DP1 / DP2に与えようとしたミッションについて書きたいと思います、と言いながら、そもそも自分の持っている仕事でとても忙しかったのと、今日の講演のための準備というところで、DP2に関するこのブログの更新が半月以上も滞っていました。すみませーん。ってことで、引き続き、DP2というカメラのことに関するエントリーを書いて行きたいと思います。そして書きたいことは本当に沢山あります。中でも、DP2のコンセプトについて語る前に、DP1という、世界を驚かせたカメラ開発のことに触れないわけには行きません。それは、DP1とDP2が持っている「独自性」そのものです。中でも、このユニークなカメラが開発されたこと自体が、いかに大変なことだったのかについて、今日は僕なりに理解しているところを書いてみたいと思います。

DP2が生まれる元になったDP1というカメラに、シグマ社が与えたコンセプトは「一眼レフ技術を、そのままコンパクトカメラに凝縮する」という、とてもシンプルなものでした。このコンセプトは、実際のところ誰もが思いつくものです。しかし、2007年にシグマ社がこのコンセプトを具体化しようと、その開発をスタートしたとき、そしてDP1が具現化した後の2009年の現在まで、シグマ社以外にこのコンセプトを具現化したカメラは存在していません。

誰もが思いつく「一眼レフ技術を、そのままコンパクトカメラに凝縮する」というシンプルなコンセプトのカメラが、なぜこれまで実現してこなかったのか…。その実際のところは僕にもわかりません。一眼レフをコンパクトカメラに凝縮するところでの技術的なハードルの高さというのは、明らかに存在しています。ただ僕は、それ以上に、シグマ社以外のカメラメーカーでは、マーケティング的な側面から開発にGOサインが出なかったところがあるのかな…という風に思っています。

ご存知のように「デジタルカメラ」というカテゴリーには、「コンパクトデジタルカメラ」という市場と、「一眼レフカメラ+交換レンズ」市場という、二つの異なるマーケットが存在しています。およそ6年前ぐらいから、携帯に搭載された、いわゆる「写メ」体験を持った数多くの人々が、「もっと綺麗な写真を残したい」という欲求を持つようになり、5年前頃から「コンパクトデジタルカメラ」市場は、爆発的な拡大を遂げました。それを基盤に、4年前ぐらいから比較的安価な一眼レフカメラが市場に投入され多様な製品ラインナップを形成するようになりました。そして、その両方のマーケットが巨額の売り上げを続けてきているのが、この数年の市場の状況です。

そうした異なる二つの市場が利益を生むカタチで活性化している中で、「一眼レフ技術を、そのままコンパクトカメラに凝縮したカメラ」の開発、および、その製品化は、明らかに既存の二つの市場を混乱させるでしょうし、カメラメーカーの多様な製品群全体として、矛盾を生んでしまうカメラ開発という事態に繋がってしまう可能性があるのではないか…と僕は考えてきました。これに関しては、色々な意見があるかと思いますので、またコメントなどで、皆さんのご意見を聞かせて頂ければと思います。

話を戻します。シグマ社は、「一眼レフ技術を、そのままコンパクトカメラに凝縮する」というコンセプトを、DP1というカメラで実際に具現化したわけですが、それは「言うは簡単、実現するはとんでもなく困難」なミッションだったことは言うまでもありません。まず、どのようにして「コンパクトに凝縮する」のか…。つまりダウンサイジングの側面です。フルボディ一眼レフであるSD14と、まったく同じスペックを、今のDP1/DP2のようなコンパクトなサイズにダウンサイジングする。しかし、カメラの中央に置かれるセンサーのサイズは同じなわけです。そして、それを処理する基盤だけでもコンパクトというサイズは埋まってしまう…。

これはとても大きな課題だったと思います。シグマ社はこの課題をクリアするために、それまで基盤上で数多くのチップで処理していた「ソフトウェアベース」のデジタル変換を、ひとつのLSIで処理していく「ハードウェアベース」という、新たなアーキテクチャ開発に着手し、まったく新たな画像処理エンジン(すべてを処理する新たなLSIチップ)を具現化しました。いまDP1に搭載されている「TRUE」チップがそれです。DP2では、さらに進化した「TRUE II」が搭載されています。ちなみに「まったく新しい」という意味は、シグマ社の以外のデジタルカメラに搭載されている、従来の「ベイヤー型センサー(モノクロセンサーの上にモザイク状のRGBカラーフィルターを載せ、上下左右4ピクセルの信号を分析して色を作る)」の信号処理を行うのではなく、Foveonセンサーという、1ピクセル単位にRGB三原色の光を捉えるフルカラーセンサーのデータ処理を行う、という意味です。これだけ多種多様なデジカメが発売されているわけですから半導体メーカーには、かなりの「ベイヤー型センサー」処理のノウハウが存在しています。しかし、フルカラーセンサーのデータを処理するというノウハウは、半導体メーカーにとっても未知のものであり、言葉通り「まったく新しい」チャレンジだったわけです。

さらに、シグマ社のDP2は実際にシャッターを切ったとき、光を受け止めたFoveonセンサーは約21MBのデジタルデータを生成します。それをそのままバッファメモリに蓄え、約14MBの画像データへと超高速に変換し、SDカードにデータを送って記録させているわけです。このエントリーを読んでくださっている方は、当然コンピュータを使っておられるでしょうから、21MBのデータ処理や、14MBのデータ転送という処理には、ある程度の時間がかかるということは体感としても、ご理解頂けると思います。そういう意味では、僕たちが使っているコンピュータよりも遥かに高速なデータ処理を行う超小型のLSIが、DP1/DP2には搭載されていると思って頂いてもいいと思います。

極端に言えば、従来の「ベイヤー型センサー」の信号処理という技術を使い、センサー、DSPチップ、レンズ、液晶、バッテリーなどを、あちこちからパーツを寄せ集め、独自の筐体にアセンブリし、市場に「デジタルカメラ」として導入する、というのは、現時点では、それほど難しいことではありません。携帯電話やパソコンに搭載されているWebカメラのように、そうした技術自体は、ノウハウを含めて、すでに「汎用」と呼んでもいいぐらいの状態になっています。

もちろんシグマ社も、最終的に出来上がるカメラを、いかに顧客が買いやすい価格に近づけるか=原価をいかに抑えるか、という側面では、そうした汎用となっている部品や技術を部分部分で導入しています。しかし、デジタルカメラにとって最も重要である「画質」を追求する部分では、シグマ独自の「レンズ開発」と、フルカラーセンサーである「Foveon X3」の搭載。そして、そのデジタル信号処理に関しては、他社にはないわけですから、完全に独自なノウハウの蓄積によって生み出されているわけです。我々に驚くような「写真」をもたらすカメラの内側には、単に他とは違うものが詰まっている、というだけでなく、孤高に独自の写真づくりを追い求める中で、磨きに磨かれたシグマ独自の数々のノウハウが詰まっているわけです。

こうしたテクノロジーの世界で、完全なる独自性を保持し、それで製品を開発し、世に出す、ということが、どれほど大変なことか。今日は、シグマという会社が、みんなが思っている以上に、ものすごい努力を続けている、というところを知って欲しいと思って、このエントリーを書いてみました。

僕は、確かに人よりも深くシグマという会社に関わっています。しかし、今日の講演でも話しましたが、「ダメなものはダメ」とキッパリと言う(今日、山木社長も言ってましたが、時には怒ってものを言う)というスタンスは誰にも負けません(笑)。もともと僕は「ずばり言うわよ」というタイプなので、シグマ社の方々からも「また怒られるんじゃないか」って思われてたりしています(反省)が、シグマさんと関わって以来、お互いの関係の中で、「中途半端なままってのはやめよう」という姿勢を崩したことはありません。こんな僕を受け入れてくださるシグマさんは、やっぱりすごいなぁと、いつも思っています。

そして、僕もひとりのユーザーであり、DP1やDP2を使ってカタログなどに使う責任の重たい写真を撮るわけですから、使っている中で「なんだこれ?」って思うような「使い勝手」における不満は、実際のところ、いっぱいあったわけです。でもそれは、そもそものカメラ設計の仕様を変えなければならないほどに重要なものであるのかどうか、という視点に立つと、極端な言い方ですが、「そっか、それは自分が、それに慣れちゃえば済む話だな」というようなものが多かったわけです。重要なのは、そういったちょっとした使い勝手の良し悪しではなく、シグマ社が出すカメラにとって最も重要なところは何なのか…、というところに立ち戻ってシグマ社さんとの議論をずっと続けてきました。

そうして、DP1 / DP2というカメラは生まれました。そして、そうした議論の中から、DP1 / DP2というカメラを「買うべき理由」というものを見い出し、それを素直にカタログなどのコミュニケーションに反映してきたわけです。世界にひとつしかないという独自性。そしてその独自性が生み出す、想像を遥かに超えたパフォーマンス。僕は、ひとりのシグマのカメラユーザーとして、一人でも多くの方に、ぜひ、その凄さを一度体験してみて欲しいと願っています。それは、「一度経験したら、もう元には戻れない」、という異次元の世界ですから。

Sunday, May 10, 2009

ニコラス・ムルコギニアスの言葉

「戦略」は言葉としても学問分野としても、ペルシャ・ギリシャ戦争のマラソンとサラミスの戦いで生まれたもので、規模の点での弱みを克服する技術であり科学なのである。戦略は、小さいものが大きなものに、少ないものが多いものに、少なくとも時として勝つためにある。

パンテアの創始者であり、ブーズ・アレン・ハミルトンの戦略的リーダーシップに関する上級執行アドバイザーであるニコラス・ムルコギニアスさんが、ハーバード・ビジネススクールに、最年少で教授に就任したゲマワットさんの出したグローバル戦略に関する本の巻頭に送った言葉。安易に「戦略」という言葉が使われるいま、正しく理解しておきたい。

Sunday, April 26, 2009

Sigma DP2: Sample Photo

SDIM0033今回のSigma DP2のカタログやWebサイトに使用している写真は、インドネシアで撮影しました。撮影地はインドネシア本土のジョグジャカルタ界隈と、バリ島のウブド、ギニャール、スミニャック界隈です。撮影時期は雨季であったため、カラっと晴れた日差しがなかなか得られず、また使用した撮影機材のDP2には、当然のことなのですが色々と問題もあり、強いストレスを感じながらの撮影でした(アルファ機を使っての撮影は予期せぬことの連続なので、本当に大変なんです)。

撮影機材としてはDP2のプリプロダクトモデルを使っています。今回はシグマの会津工場で細かな微調整(会津工場にはレンズとカメラのテストを行う巨大な専用の部屋があります)を行っていただいたDP2のプリプロダクトモデルを2台用意して頂き、それらを使用して撮影しました。またファームウェアはブラッシュアップ中であり、バージョン0.2あたりのベータ版を搭載しての撮影でした。そういう、最終的に発売されたDP2ではない機材を使用しての撮影データですが、DP2オフィシャルサイトのサンプルギャラリーとは別の角度で、DP2の画質や解像感を感じていただけたらと、Flickrにサブ写真をアップし始めました(いま23枚アップしています)。

Sigma DP2 beta on Flickr
レンズ性能のところを見ていただくために、カメラを三脚で固定して、同じフレーミングの状態で、F2.8から順に絞りを変えて撮ったもの。また、PhotoProを使っての印象の違う現像のものなど、色々とアップしていきたいと思っています。ただ、X3Fデータを、PhotoProを使って現像し、等倍のJPEG写真をアップロードしていくのは、かなり時間のかかる作業なので、いっぺんには出来ません。これから時間を見つけてアップしていくということになると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

それから、個々の写真の現像は、自分の脳内の「感動記憶」に沿った写真として現像しています。つまり僕の「写真表現」というところでの写真です(ほとんどの写真はExifが出るようにしてありますので必要な方はそれをみてください)。僕は、写真というものは、撮影者の個性があるべきであり、個々の「感動記憶」の表現であるべきだ、と考えています。それについては、こんどのApple Store銀座での講演でお話したいと思っています。

Saturday, April 25, 2009

Sigma DP2: My Pleasure

そろそろSigma DP2について語っていこうと思います…と先のエントリーに書いたのですが、僕は株式会社シグマの社員ではなく、あくまでも外部の人間として、シグマのブランドディレクターという立場を務めている人間です。その立場から、写真というものを愛している人たちに、シグマが作るカメラが持つ本当に素晴らしいパフォーマンスを、どうしたら伝えていけるだろうか…と、それを暗中模索しながらアイデアを出し、シグマさんと熱い議論を交わしながらコミュニケーションの骨子を決め、それを具体化していくアートディレクターでしかありません。ですので、僕がこのブログに書いていることは、決してオフィシャルな情報ではない、という前提で読んで頂きたいと思います。

とはいえ、そうした立場から僕が得ている詳細な情報は、シグマ社が広報として一般に向けてリリースする情報量をはるかに超える内容のものであり、同時にコミュニケーションを決めていくディレクターとしては、当然のこととして、それらの専門的な情報を鵜呑みにするのではなく、ちゃんと自分自身で理解できるように勉強を重ねてきました。そして、その専門的な知識を持った上で、プリプロダクト実機を使ってのテストを重ね、自分の感じた点をフィードバックしていく、というプロセスを経てきています。

そうして、守秘義務的な側面を多く含んだ詳細な情報を自分なりに理解した上で、「一般的なユーザーからすると、これは絶対ダメ」。と言い切ったことも少なくありません。出来るだけ完成度の高い製品になるように、という立ち位置から、僕は僕で真摯にこれまでのシグマのカメラ製品には向き合ってきた…という自負は持っています。過去、これはダメと言い切ったフィードバックの中には、製品開発として非常に大きな軌道修正を行わなければならないようなものもあり、まさに経営判断に繋がるというような事態もありました。そして、そうしたフィードバックを一蹴するのではなく、本当に真摯に受け止め、シグマさんは真剣に悩んでくれる会社なのです。このシグマという会社の持つ姿勢や、それを支えるシグマに流れる文化や風土は、僕は尊敬に値するものだと思っています。そして、それがあるからこそ、こういったユニークな製品が開発できるのだと思います。

でも、そういう開発時点での紆余曲折や苦労話というものは、買ってくださる顧客にとっては結果的にはどうでも良い話であって、最終的に製品としてみなさんの手元に届いたシグマのカメラが、どれだけパフォーマンスするのか、ということが評価のすべてでしかありません。

そしてこれは、コミュニケーションを作っている僕自身の仕事においても、まったく同じことが当てはまります。僕が作るDP1やDP2などのカタログやWebサイトに「この写真はこう見てください」という注釈は書けないわけです。そこに刷られている印刷がすべて。そこに書かれている文章がすべて。実写写真そのものがすべて、であり、カタログやWebサイトを見て、それを「言い過ぎに思う」と評価されるのか、買ってくださった顧客たちが、このカメラを使うという経験を経たうえで、「シグマがカタログやWebサイトで言っているのは、こういうことだったんだな…」と、納得していただけるかどうか…。結局は、それがすべてなわけです。

だからこそ僕はシグマ社に対して、「シグマ社側に立って物事を考えていく」というスタンスと、「最終的に買ってくださる顧客の立場から物事を考えていく」というスタンスの、その両方を、常に自分の中に保持しながら、自分自身がシグマのカメラを買った顧客として、このカメラを使う顧客は「何を思うか。何に感動するか。何にガッカリするか。そして、何を誇りに思えるのか」と、そこを、自分自身の体験を通じながら、自分自身で何かを感じ、体験を経験として行けるものが、どこにあるのかを深めて行く必要がある、と考え、アルファ版、ベータ版という未完成の機材を使ってですが、さまざまなテストを行って、体験を経験に置き換えようと努力してきました。

今日は、まずは、僕がこの先DP2に関するエントリーを書いていくにあたって、自分のスタンスがどこにあるかについて書いてみました。この次は、DP1と、DP2というカメラに、どういうミッションを与えようとして行ったかというあたりを(僕が書ける範囲内でですが)書いてみたいと思います。

それから、発売された昨日のうちにDP2を入手された方々は、今日、そして明日と、お天気が悪いので、悶々とされている方も多いかと思います。この先の連休はスッキリ晴れるという天気予報もありますので、どうか、RAWモードで十分な光のある条件下で撮影してみてください。そして、それをPhoto Proで開けて、ダイナミックレンジの豊かさを実感して頂きたいと思っています。

ちなみに、このエントリーのためにアップした写真は、インドネシアでDP2を使って撮影した時に撮ったものです。被写体は巨大なバナナの樹の可憐な花。撮影初日に見たときは、まだ蕾だったのですが、なんとなく気になって毎日毎日チェックしていたところ、雨季特有のスコールが激しく降る四日目の朝に「ぺろーん」っていう感じで花弁が開きました。かなり暗い条件下でしたが、ブレないように必死でDP2をホールドして撮影しました。真ん中に立っているピンクの花弁が15cmぐらいある、かなり大きな花です。熱帯の植物はどれも大きいですね。

Thursday, April 23, 2009

Sigma DP2

いよいよ明日「Sigma DP2」が発売されます。すでに予約された方々には、おそらく今日中に手元に届くと思います。

これまで守秘義務的な側面もあって、あまり語ることが出来ませんでしたが、そろそろこのユニークなカメラのことを書いてもいいかな、という時期になりましたので、今後は色々と書いていきたいと思います。

SD14、DP1、そしてDP2と続けて、それぞれのカメラのブランディングとコミュニケーションコンセプトの組み立てを手がけてきました。どういうカメラとして訴求していくのかの骨子のところを詰めていくのは、そのまま仕様や開発の部分に対しても大きな影響を与えますし、実際に数多くのテストを僕自身で行ってきました。そういった、かなり深い立ち位置で手がけてきたわけなので、「発売」という瞬間が来ると、「どんな風に評価されるだろう…」というドキドキ感や不安はもちろんあるのですが、やはり、この製品が世に出て行く、というところで嬉しさを隠せません。手塩にかけた子供が巣立っていくような感情に近いものを感じています。

DP2は、とにかく素晴らしい描画能力を持ったカメラです。数ヶ月前、ロケ先のホテルの部屋で、アルファ機を使って、終日走り回って撮影してきたRAWデータを現像したとき、自分でも、その画質の高さと解像感に驚きました。それは単なる「解像度」ではなく「解像感」です。でも、何よりも一番驚いたのは、そうして撮影してきた写真をカタログにレイアウトして出稿し、その色校正を受け取ったときです。ハイエンドな一眼レフと高価なレンズなど、プロ用の機材を使って撮影した写真を遥かに超えた刷り上りでした。これには自分でも驚きました。1200dpiのCMYKカラープリンターで確認はしていましたが、実際に印刷で、ここまで出るのか、と驚きました。クリアさと濃密さ。シャープさとボケ足。それらの両立と言えばいいでしょうか。DP2のレンズ性能は筆舌に尽くしがたいものがあります。さらに開放でF2.8という明るさは、DP1のF4よりも1段明るいわけですが、この1段の明るさはとても大きいです。DP1に比べて実際の撮影時の手ブレ率が激減しました(笑)。

まぁ、アルファ機であるプリ・プロダクト・モデルを使ってのロケ撮影は、本当に大変だったんです。その話は、また別の機会に。まずはDP2発売、おめでとうございます!

Sunday, April 05, 2009

ティエリー・フリッチの言葉

「ブランドとは、言い換えれば人柄そのものだと考えます。生来持つ性格や器量こそが大切。ショーメというブランドの人柄に、従順について行こうと思います」。

ティエリー・フリッチさんは1955年生まれのフランス人。カルティエなどを経て、2001年にショーメ・パリの社長に就任。「ブランドは人柄」。いい言葉だ。「生来持つ性格や器量」に「従順」に。そう、どんなブランドも生まれた瞬間ってものがあるんだよね。

Saturday, March 07, 2009

福沢諭吉の言葉

「独立の気力のない者は必ず人に依頼する。人に依頼する者は必ず人を恐れる。人を恐れるものは必ず人にへつらう。そして人にへつらうことによって、時に悪事をなすことになる。独立心の欠如が結果として、不自由と不平等を生み出す。学ぶことの目的は、まずは独立心の涵養である」。

福沢諭吉さんの言葉です。深い言葉です。今の社会状況を変えていく指針ともなる重い言葉であると同時に、自分を取り巻く環境を見る上でも明快な視座を指し示しているように感じます。さらに、この言葉を、日々の自分の暮らし方や、仕事に向かう姿勢として、という風に置き換えて受け止めても、数々のことに気づける。真理を突いた言葉ということですね。胸に刻んでおこうと思います。

Wednesday, February 18, 2009

村上春樹の言葉(全文)

いたちょ【謎】が全文をアップしてくださったのでコピペして整形。自分で翻訳してて、なんか繋がんないなぁと思ってたのがスッキリしました。前振りの割りに短いスピーチだなと思ってましたが、この全文を読むと村上春樹さんが何を伝えたかったのかがより鮮明になります。

「常に卵の側に」

今日、私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つきとしてやってきました。もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。

どうしてこんな事がまかり通っているかって?答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。もちろんこれには理由があります。ガザを怒りで満たした激しい戦いです。国連によると1,000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

そういう訳で私はここにいます。ここに近寄らないよりは来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断は、もちろん小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」。

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆破犯と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステムです。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。

昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。

味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実態ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです。

私が言いたいのは以上です。エルサレム賞をいただき、感謝しています。世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。

村上春樹の言葉

エルサレム賞を受賞した村上春樹さんの受賞スピーチが英文のまま掲載されていたので、勉強のために翻訳してみた。「ユニーク」という言葉の対訳に迷った。また「システム」という単語も適切な単語が思い浮かばずカタカナにした。それはさておき、日本語にしてから読み直してみて、短いスピーチだけれども、さすがに文筆家だけあって深い内容を持っているなぁと思う。さらに日本人っていうのは、こういうシビアな場では沈黙を貫くほうを選ぶケースが多いと思われる。だが彼は、人間として誰もが持っているはずの良心(スピーチでは神性とも言っている)に向けて、こうして堂々と言葉を発している。これは尊敬するべき姿勢だと思う。さらにその言葉を発する前に「私たちは我々自身の内にある真実がどこにあるのかを明瞭にしなければなりません」と、自らの「作家というものは」という信念を語っている。こうした真摯な姿勢にも学ぶことが多い。

So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.

私はイスラエルに来ました。小説家として、つまり嘘の紡ぎ手として、ここに来ました。

Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.

小説家だけでなく嘘をつく人はいます - 政治家も(大統領閣下、すみません)、外交官も嘘をつきます。しかし小説家と他の方々との間には区別できるものがあります。小説家は嘘をついたことで告訴されることはなく、むしろ賞賛されるのです。さらにその嘘が大きいほど、大きな賞賛を得るのです。

The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.

私たち小説家と他の方々の嘘と異なる点は、私たちの嘘は真実を明らかにする助けとなるものです。真実を完全な形として掴むのは困難なので、私たちはそれを作り話の領域に翻訳するのです。しかしまず最初に、私たちは我々自身の内にある真実がどこにあるのかを明瞭にしなければなりません。

Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.

今日、私は真実を話します。私が嘘を語ることに従事しないのは年に数日しかありません。今日はそのうちの一日です。

When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?

私がこの賞を受け入れるように頼まれたとき、ガザでの戦闘を理由にこの地に来ることに警告されました。私は「イスラエルを訪問するのは適切なことだろうか? 一方の側に味方することになるだろうか?」と自問しました。

I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.

私は熟慮しました。そして来ることを決めました。ほとんどの小説家のように、私も人に言われた正反対のことをするのが好きなのです。それは私の小説家としての気質です。小説家は自分自身の目で見ていないもの、自分自身の手で触れてもいないものは何も信じることができません。私は見ることを選びました。沈黙するよりも、むしろここで話すことを選びました。

So here is what I have come to say.

ここに、私をこの地に来させた主張があります。

If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.

もしそこに堅く高い壁があり、それによって卵が壊れていたら、いかに壁が正しく、卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つのです。

Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.

なぜか?なぜなら、私たちはみな卵だからです。壊れやすい殻の中に掛替えのない魂を宿した卵なのです。私たちは個々に高い壁に立ち向かっています。高い壁とは、普通なら一個人として行わないと思うことを、行わせようとする我々への支配力のシステムです。

I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.

私が小説を書く目的はひとつだけです。それは、個人の内にある掛替えのない神性を描き出すことです。無比であることを満足させるためです。システムが我々を紛糾させるのを防ぐためです。だから私は人生と愛の物語を書くのです。人々を笑わせ、泣かせるのです。

We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.

私たちはみな人類であり、掛替えのない存在であり、壊れやすい卵です。壁に対して私たちには望みが全くありません。壁は、あまりにも高く、あまりにも暗く、あまりにも冷たいのです。壁と戦うために、私たちは温めあい、強さのために心を結合させなければなりません。システムに主導権を握らせ、我々がどんな人間かを規定させてはならない。我々がシステムを規定するのです。

I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.

私は、私の本を読んでくださったイスラエルの方々に感謝します。私たちが何か意義深いものを分かち合えたることを願っています。あなた方がいることが、私がここに来た最大の理由なのです。

Friday, January 23, 2009

横尾忠則の言葉

「自分が描いた絵が、人に影響を与えるのは、いいことだと思う。人に影響が出てきたな、ということが見えてきたら、そしたら自分は別の場所に行かなきゃいけない。自分はずっと同じことをやっていてはだめで、次に行かなきゃならないんです。自分を変えるタイミングが、影響が出てきたことによって、わかるから。つまり、影響が出るおかげで、ぼくが変わることができるんです」。

しょえー!横尾忠則先生のお言葉はさすがに重たい。出典は2008年12月5日に行われた「ほぼ日刊イトイ新聞-横尾忠則さんの街角的公開制作」。鳶職姿で、じゃーっと描いていて「休憩!」となって、突然見ている人に「質問とかありますか」となって、「自分が描いた絵が人に影響を与えることについて」という質問(いい質問だわ)を受けた横尾先生が、さらりと答えられたお言葉。自分では十分にわかっていることだが、先生も、こう考えながら変わり続けてこられたんだなぁと、ひとりで感動。

Thursday, January 22, 2009

ロバート・ケネディの言葉

オバマさんのスピーチを勉強のために翻訳していて(まだ進んでません)、ロバート・ケネディのスピーチを思い出した。そのスピーチは、彼がアンバサダーホテルで暗殺される2ヶ月前、1968年4月のスピーチなので、もう40年も前のメッセージなのだが、いつまでも心に留めておきたい偉大な演説だと思う。このスピーチは、映画「BOBBY」のラストに流れる。去年の11月頃、オバマさんが候補者を獲得し、マケイン議員と大統領選を戦っていたいた時期に、アメリカの思想の背景を確かめたくてこの映画を見直し、見終わったときに思わず巻き戻して書き留めたのがこのスピーチだった(映画を見たときの感想はshinzlog-Cinemasの方に記録している)。アメリカ映画が、その時々の政府の影響を受けて自国のプロパガンダに走りがちなのはよくわかっている。だが、このスピーチは脚本ではなくボビー自身が直接語っているものなので、そういうところを離れて心に響いたのかもしれない。アメリカが再出発しよう、というこの時に、このボビーの精神が生かされていくことを願って、ちょっと長いがスピーチをここに再度記録しておく。

「今日は政治を語ることはしません。この機会に、ぜひ伝えたいことを簡単にお話します。アメリカでの心ない暴力について。

暴力は国の名誉を汚し、人々の命を奪います。それは人種に関係ありません。暴力の犠牲者は黒人、白人、富人、貧人、若者、老人、有名、無名。何よりもまず、彼らは人間だということ。誰かに愛され必要とされた人間なのです。誰であろうと、どこで暮らそうと、どんな職業であろうと、犠牲者となりえます。無分別な残虐行為に苦しむのです。それなのに今もなお、暴力は私たちのこの国で続いています。

なぜでしょう?暴力は何を成し遂げたでしょう?何を創り出したでしょう?アメリカ人の命が、別のアメリカ人により、不必要に奪われる。それが法の名の下であろうと、法に背くことであろうと、一人、または集団によって、冷酷に計画して、または激情にかられて、暴力的攻撃によって、または応酬によって、一人の人間が苦労して自分や子供のために織り上げた生活や人生を、暴力で引き裂く。

暴力は、すなわち国家の品位を貶めることです。それなのに私たちは暴力の増徴を容認する。暴力は、私たちの人間性や、文明社会を無視しているのに、私たちは、力を誇る者や、力を行使する者を、安易に賛美する。自分の人生を築くためなら、他者の夢さえ打ち砕く者を、私たちは、あまりにも安易に許してしまう。

でも、これだけは確かです。暴力は暴力を生み、抑圧は報復を生みます。社会全体を、浄化することによってしか、私たちの心から病巣を取り除けません。あなたが誰かに、人を憎み、恐れろと教えたり、その肌の色や、信仰や、考え方や、行動によって劣っていると教えたり、あなたと異なる者が、あなたの自由を侵害し、仕事を奪い、家族を脅かすと教えれば、あなたも、また他者に対して、同胞ではなく、敵として映るのです。協調ではなく、力によって征服し、従属させ、支配すべき相手として、やがて私たちは、同胞を、よそ者として見るようになる。同じ街にいながら共同体を分かち合わぬ者、同じ場所に暮らしながら同じ目標を持たぬ者として。

共通するものは恐れと、お互いから遠ざかりたいという願望。考え方の違いを、武力で解決しようという衝動だけ。

地上での私たちの人生は、あまりに短く、成すべき仕事は、あまりに多いのです。これ以上、暴力を私たちの国ではびこらせないために。暴力は、政策や決議では追放できません。私たちが一瞬でも、思い出すことが大切なのです。共に暮らす人々は、皆、同胞であることを。彼らも私たちと同じように、短い人生を生き、与えられた命を、私たちと同じように最後まで生き抜きたいと願っているのです。目的を持ち、幸せに、満ち足りた達成感のある人生を送ろうと。

共通の運命生きる絆は必ずや、共通の目的を持つ絆は必ずや、私たちに何かを教えてくれるはずです。必ずや私たちは学ぶでしょう。まわりの人々を仲間として見るようになるはずです。そして努力し始めるでしょう。お互いへの敵意をなくし、お互いの心の中で、再び同胞となるために。」(ロバート・F・ケネディ)
」
全文は以下から読める。"Robert F. Kennedy, Cleveland City Club,April 5, 1968"

Monday, January 19, 2009

読めない漢字:時化

アースマラソンに挑戦中の寛平ちゃん。千葉を出発してからアメリカ大陸を目指してヨットで西に向かっていて、ハワイぐらいのところまで一旦南下してから北西に向かおうとしています。毎日欠かさずに「いまこんな感じやでー」っていうリポートが太平洋のど真ん中から届くのですが、昨日ぐらいから天候が変わってしまって、いま大荒れの中を進んでいるようです。その報告の題名が「時化」。「え?じか?じかってなに?」って思った僕は馬鹿です。はい(しょぼーん)。RSSリーダーで「時化」って表示されたときは読めませんでしたが、サイトにアクセスして写真を見て「あ、シケだ!」と思い出しました。最近、新聞などでも「時化」とは表記しないからか、すっかり忘れてました。「時化」は「シケ」です。はい。覚えました。もう間違いません。それはさておき、昨日、寛平ちゃんからの報告に、ちょっと心を動かされる言葉がありました。とてもいい言葉です。僕、こういう寛平ちゃんが好き。以下に引用しておきます。

寛平和尚の一言:「ひっきゃん!この船は宝船やねん!いっぱい宝つんだ宝船やねん。ロスについたらその宝物が見れる『感動』という宝物がみれる、宝船やねん。だからつらいことがあってもその宝物がどんどん大きくなるからええねん。がんばれんねん!」。出典:アースマラソン・公式ブログ

Saturday, January 17, 2009

資生堂のアジア戦略

このまえ、コミュニケーションのグローバルマネジメントの話を書いたけど、今朝、資生堂がアジア圏でのコミュニケーションマネジメントを本格的に着手するというニュースが出た。

ビューティという分野も、同じ商品をグローバルに展開するビジネスが可能ではあるが、クルマや家電やカメラと違って、この分野は人種や文化によって細かくコミュニケーションをチューニングしないと受け入れられない。顔かたちが違えば何を美しいと思うかも異なるし、そもそも肌のタイプが異なるのだから、マーケティングはとても複雑になる。それを「これがいまの美です!」と言い切る形で押し切っていくのはモードブランドのように独自のブランド世界を構築し、雑誌媒体への圧倒的なイメージ戦略と、突出した売り場づくりが必要になる。ディオールやシャネルのように、ビューティ分野だけではなく、モードも含めたブランド価値を統合的に動かせる一部の企業体は、その資産を最大活用する戦略でマーケットを拡大してきたが、それには莫大な資金と、管理していく強力な社内体制が必要であり、これまで日本の企業は中々踏み出せなかった。

もちろんイメージ戦略を統一すれば成功するわけではない。重要なのはプレス機能(広報)と売り場(顧客体験)だ。まず広報だが、ブランドとしてイメージ広告を出稿する雑誌が、特集としてどこまで詳細に商品属性を記事として伝えられるかが重要であり、それを細かく仕込んでいく広報の力が成否を分ける。だがその広報も、どの雑誌も同じような提灯記事では意味を為さず、雑誌ごとに細かく企画を立て、個々の雑誌の読者層に届くようにアピールポイントを最適化する必要がある。プレスがただの出稿管理レベルではお話にならず、そうした有効な広報企画は媒体との信頼にも繋がるので、継続することができなければならない。さらに各国ごとにセレブを巻き込んでの話題づくりなどなど、現場レベルでやるべきことは満載だ。

さらに顧客体験。ブランドイメージを前面に打ち出した斬新で印象的な売り場の設計は絶対に必要であるが、中でも重要なのはその「場」でどれだけ豊かな顧客体験を生み出せるかが成否を分ける。これを成功させるには接客する販売員のインテリジェンスを他のブランド以上に高めなければならず、その教育にも莫大な費用と時間と手間がかかる。実際、今のコスメティックは完全にサイエンスであって、どういった革新的な科学が個々の化粧品に応用されているかを訴求する戦いになっている。つまり生半可な知識しか持たない「立ちんぼ」の販売員では競争にもならない。高度な話を顧客それぞれに落とせるマヌカン教育が、実は一番大変なところかもしれない。

もちろんこれだけではない。書き出したらキリがない。だが、こういった要素を、国ごとにすべてを洗い出して方針を決め、適切に対処し、豊かなコミュニケーションを継続することが、いかに大変で複雑であるかは、これを読むあなたにも想像出来るだろう。大量に広告を投下すれば何かの流れは変わるかもしれないが、「売れ続ける」というビジネスとしての成功には何よりも現場レベルでの細かな最適化作業が絶対に必要になる。アジア圏というリージョナルなマネジメントではあるが、資生堂さんがそれに踏み切り、競争力を高めようとするのは素晴らしい取り組みだと思う。どこまで出来るのか今後の動向を見守りたい。

資生堂、「美白」売上高の1割販促に アジア強化へ20億円
資生堂は中国やタイなどアジア7カ国・地域で高級化粧品の販売を強化する。2月から美白効果のある化粧品の売り場づくりや広告に、売上高の1割に当たる 20億円を投資する。日本流の接客術も導入する。アンチエイジング(抗加齢)効果を期待できる商品でも同様の販売促進策を展開する。資生堂は中国、香港、台湾、タイ、マレーシア、シンガポール、韓国の百貨店に約700カ所の売り場を持つ。美白化粧品4ブランドの陳列棚やポスター作製などの売り場づくりや広告・宣伝はこれまで国・地域・ブランドでばらばらだった。日本を含めて9月末まで、これを一本化する。美白のクリームや化粧水などの宣伝のコピーを漢字で「百年美白」(中国のみ「美白先駆」)と統一して売り込む。テレビCMなどのマス広告を主体としない高級化粧品で販促費に売上高の1割を投じるのはあまり例がないという。(08:14)
 出典:NIKKEI NET

Friday, January 16, 2009

ジョブズの人生

スティーブ・ジョブズが具合悪いらしい。「体重減少はホルモン異常のため」として辞任しない意向を示してきていたし、Appleの取締役会は、大丈夫。夏には復帰するっていう態度だけれど、市場や投資家は冷静で、スティーブが実質的に経営から離れるという情報が出た途端にAppleの株価は大きく下がった。それはスティーブ・ジョブズという一人の人間が、いかに大きな存在としてAppleという企業の価値を支えているかの証明でもあるが、その一方で、Macintoshというコンピュータを使ったことのある人なら、そんなのはあたりまえ。スティーブ抜きのAppleなんて想像すら出来ない。世界中のMacユーザーがスティーブの回復を祈っている。もちろん僕もそのひとり。そこで丸々のコピペになるけど、スティーブが元気だった2005年に、スタンフォード大学の卒業祝賀式典で、彼が自分の人生を重ねて、これから世の中に出て行く若者たちへのメッセージを自分のブログにも記録しておこうと思う。素晴らしいスピーチだ。心して最後まで読むべし。



PART 1. BIRTH
ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。

しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。


PART 2. COLLEGE DROP-OUT
こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。

ひとつ具体的な話をしてみましょう。


PART 3. CONNECTING DOTS
リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。


PART 4. FIRED FROM APPLE
2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。


PART 5. ABOUT DEATH
3つ目は、死に関するお話です。私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

              
PART 6. DIAGNOSED WITH CANCER
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。

私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。


PART 7. STAY HUNGRY, STAY FOOLISH
私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。Stay hungry, stay foolish.ご清聴ありがとうございました。


The Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios ■翻訳:市村佐登美 satomi@mediaexpress.org