Friday, June 26, 2009

Michael Jackson


マイケル、長い間、ありがとう。

Wednesday, June 10, 2009

UNIQLO CALENDAR


クリックして、音量上げて、サイトで見ましょう。とっても楽しいです。しかし、よくこれだけブレを起こさないで撮影してるってのに驚く。そこがシッカリしてないと全部オシャカだもんな。色々な苦労が詰まってるっていう感じもあるけど、仕上がりはバッチリ。日本だけじゃなくて世界中をシリーズでやって欲しいな。

追記:このコンテンツに対して、ブログやtwitterで「今までで一番好き」というコメントを数多く見かけた。「今までで」という言葉が出るということは、すでにこういったコンテンツがユニクロのブランディングとして幅広く受け入れられ、ある種のイメージを持たれている証拠でもある。このコンテンツは、直接的にユニクロの服の売り上げに貢献する、というタイプのものではない。一方、広告と連動して「そのまま販促」というものをコンテンツとして作られてきたものも多い。さらにその中間に位置するコンテンツも数多く公開されてきた。こうしたコミュニケーションの多層構造を網羅して埋めていくというのは、実はとても大変なこと。その多層構造すら理解していない広告屋さんも多い中、ユニクロの取り組みは注目に値すると思う。

Friday, June 05, 2009

Sigma DP2: Catalog Shooting

アートディレクターという立場にある僕が、プロのフォトグラファーを使わず、カタログやWebサイトなど、DP2のコミュニケーションに使う写真を、なぜ自ら撮影しているのかについて、もう、会う人、会うひとから聞かれています(笑)。なので、もっと別のことを書こうと思っていたのですが、今日は、その疑問に先に答えちゃおうと思います。

結論を先に言うと、「機材としての未完成度合いが半端じゃない」という現実と、DP2の良さを伝えるには「プロを使わずに撮影した写真でなければならない」というコミュニケーションコンセプトを立てたことによります。それらについて書いてみます。

僕が、広告などの制作のために普段から撮影を依頼するプロのフォトグラファーたちは、プロとして当然のことなのですが、実際に撮影する時点で、いかに問題を起こさず、いかにスムーズに撮影を行うかに対して、常にとてもナーバスになります。これはスタジオで撮影を行う場合でも、ロケに出る撮影でも、まったく同じです。彼らは、普通なら起こらない不測の事態にも対応できるように万全の態勢を整えます。カメラマンが持つスタジオという場所は、言い換えれば、そういう「不測」への解決策が凝縮された場所です(貸しスタはそうではありません)し、ロケ地に乗り込む場合でも徹底した準備が普通です。

それはプロとして「撮れなかったでは済まされない」という責任感の裏返しでもあるので、アートディレクターとしては、その徹底した準備によって「そこは頼むね」で済ますことが出来る信頼に足る最低条件だったりします。おそらくそれらは、彼らが今日に至るまでに経てきた、数々の「自らの準備不足のために招いてしまった結果としての冷や汗、時には失敗、時には出入り禁止」に遭遇してきた「痛い経験」を元に組み立てられているようで(彼らは失敗の経験を語りたがらないんですけどね)あり、まさに言葉通りに万全を期するのが常識。中でも最も重要なのは、肝心のカメラとレンズとストロボの「機材管理」と、どのカットがどういう状況(露出や色温度)で撮影したかを記録し、現像段階で問題を起こさないようにするための「撮影管理」であり、彼らのアシスタントは、どんなにのどかなロケ地に来ても、常に眉をしかめて(笑)ミスがないように集中するのが普通です。

そういうプロのチームに、機材として「どんな問題が発生するのか使ってみないとわからないカメラ使ってね」の上に、「フルデジタルの環境を現地に持ち込んで、そのつど現像してみないと、どう撮れたのかわからないんだよね(さらにテザー環境はない)」というのが、僕が抱えている案件の現実なわけです。あまりにも不確実要素が多い、いや、多いというよりも、逆に確実な要素は皆無に近い(笑)、という状況に、彼らのようなプロのチームをアサインして、「でも、プロとして完璧な写真を撮ってね」という依頼は、かなり無茶な依頼以外のなにものでもないわけです。

もちろん彼らはプロですし、仲間ですから、「厳しいけど、やってよ」と強く頼めば、「うん、じゃぁ、やれるだけやってみるか」と引き受けて、一緒に暗中模索の撮影に取り組んではくれます。しかし、僕は、撮影を彼らに頼むか、自分で撮るか、悩みに悩み、そのどちらにするかを、最後の最後まで考えて、最終的に「自分で撮るしかないな」という判断に至りました。プロのフォトグラファーに「何が起こるかわからない機材を使え」というのが現実ですから、過去の経験から、彼らが抱えるストレスも予測できますし、実際に僕自身が、アートディレクターとして撮影現場に立ったとき、そこに発生するストレスの度合いを考えると「到底、頼めないな」と結論づけたわけです。

ベータ機を使うストレスは筆舌に尽くし難いものがあります。ものすごいです。現場で何度も胃がよじれるような緊張感を味わいますし、ホント、禿げそうになります(笑)。アートディレクターとして「こういう写真が撮りたい」という、カメラが持っている性能を最大化した写真のイメージも、実際の実機を動かしてみないと、それを実現できるのかどうか、その場になってみないとわからないわけです。事前準備を徹底する彼らの常識からすると、そんな曖昧さを残したままアートディレクションされたら、その場その場で臨機応変に対応していくところにも神経を使うことになるのは明白。さらに僕自身も、自分が抱えているストレスに加えて、彼らが抱えるストレスまで受け止めて、彼らの抱える不安をどこまで現場で解消できるだろうか…と考えると、もう全部、まるごと自分で背負っちゃえ、という感じで、かなりの覚悟は必要でしたが、自分で撮影することに決めました。

誤解のないように念のため記しておきますが、僕の手元にDP2の実機が届いたのは、ロケに出発する前日です。それは発売予定日までのスケジュールの逆算で決まります。詰めに詰めたギリギリの予定として、この日からこの日の間に撮影を行い、それらを使ってカタログを制作し、いついつに印刷出稿…、という予定を先に立て、ロケに使うためのDP2の実機は、それ用にシグマの会津工場で組み立てられ、ロケ出発直前までシグマ本社の技術部門でファームウェアのチューンナップが続けられたものが手渡されるわけです。

つまり「いまの時点で、これが最も製品版に近い実機です」というものを受け取った翌朝には、僕は機上にいるわけです。飛行機の中で操作系はひととおり身につけますが、もちろんその時点でマニュアルなんて存在しません。ですから僕もロケ地に到着してから初めて本格的にDP2を使い始めるわけです。そこからは、丸一日かけて、「アタマの中で想定していた絵」と、「実際に撮ってみるとこうなんだ」というギャップを順番に埋めていきます。「DP2の最も優れた部分が何なのか」は、シグマさんの一緒にコンセプトを詰めてきていますから、概念としてアタマには入っています。それを実際にどう撮れば表現できるのか、というところを検証していくわけです。画角や被写界深度のニュアンスを掴むには、やっぱり一日必要なんですね。そして、だいたいこう狙えばこういう感じの絵が撮れるんだなという感覚を、身体に覚えさせるのにもう一日使います。この段階では、色とか全然気にしていません。カメラとレンズが作る世界観を確かめることに費やします。そうした検証と操作系の慣れを大急ぎで行い、その後に、現地のコーディネーターと共にフルに動き始める、というような過ごし方をするわけです。その状況を「フォトグラファーとして肩代わりしてよ」と、仲間のプロの彼らに頼むのは「ちょっと酷すぎる」という状況なわけですね。

さらに、今回の撮影に使ったDP2のベータ版は、さまざまな挙動を最も高速化したという状態で受け取ったために、バッテリーの持ちが極端に短いという個体でした。フル充電したバッテリーを入れてもあっという間に電源が切れるわけです。実際にはバッテリーを完全に使い切っているわけではなく、あるレベルになると電源不足で自動的にカメラが終了する、という設定値が高かっただけ(その使い切ったバッテリーをDP1に入れると全然フル充電で何日も使えました)なのですが、とにかく手にしているDP2のベータ機はバッテリー1個で1時間ぐらいしか持たないわけです。これはもう撮影している立場からすると、「ありえねー!」っていう状況です。毎晩、15個のバッテリーを確実に充電し終わるまで寝ないで翌日に備え、かつ、充電器を二台ロケバスに積んで、撮影場所の近くにコンセントがないかを、常に探して充電し続けました。撮影中は常に右ポケットにバッテリーを5個ぐらい入れています。構図を決めている最中でも、突然「ぷちゅーん」と切れちゃうので、即座に底面を開けてバッテリーを入れ替え、使い切ったものは左ポケットに入れ換えていくっていう感じです。さらに、そうして切れてしまうと、設定値が全部デフォルトに戻ってしまうというバグもあり、非常に強いストレスを抱えながら、被写体に向かって行くわけです。

話が長くなりましたが、そんな風に悩んだ末、彼らには頼まず、今回も自分で撮ると腹を決めて、雨季のインドネシアを駆け回りました。

もうひとつ、広告を撮影しているプロのフォトグラファーをキャスティングせず、自分で撮ろうと決めた理由の、最も決定的な要因は、「ユーザーと同じ状況で撮る」と決めたことです。つまり、「最終的に製品として発売されたあと、このカメラを使うユーザーと、まったく同じ状況で写真を撮らなければならない。写真にギミックがあってはいけない。コミュニケーションに不信感を抱かれるような写真の作り方は絶対にやってはいけない」というものです。

インドネシアでの撮影も、現地のコーディネーター(今回は「課長・島耕作」のロケを段取りしたスタッフが頑張ってくれました)が、「え!それだけデスカー!」と驚かれました。彼らからすれば、ありえない撮影隊です。普通なら存在する複数のジュラルミンケースも、ハンギングされた衣装もありません。機材はDP2と三脚だけ。ヘアメイクも衣装も一切入れていません。細々したことを担いながら僕を助けてくれるスタッフはいますが、僕は片手にDP2を持っているだけですから、撮影コーディネーターからすれば、普通のツーリストのオッサンにしか見えません。レフ版も一切使わず、現場での光の補正なども一切行いませんでした。すべて「そこにあるがまま」で撮影すること。それをミッションとして撮影しました。

さらに実際にカタログに使用した写真は、RAWデータを専用現像ソフトであるPhoto Pro 3.5で現像した以外、一切手を入れていません。コントラストやシャープネスもPhoto Pro 3.5だけで調整。すべて等倍Tiffデータで書き出し(見開きページは倍サイズ)。そのままCMYKに変換して印刷しています。Photoshopでのレタッチやシャープネス補正は一切していません。同時に、発売前にサンプルギャラリーを公開し、DP2で撮影した見本を見て頂けるように準備しました。さらに発売後は、そのまま使っているということを証明できるように、カタログで使用した写真を、僕のFlickrのサイト上で等倍サイスで公開し、さらに現像パラメータがわかるように、Exifも含め、すべてを見て頂けるようにしました。

つまり、サンプルギャラリーや、カタログに印刷する写真は、広告的に謳っていることを強調するために後処理で手が入れられた写真ではなく、実際に発売後のDP2を手にした方々が撮影される状況と、まったく同じ状況で撮影しなければウソになってしまう。だからこそ、現地のコーディネーターが「観光客っぽいっすね」と呟いたままの撮り方で撮影する、というスタイルこそが重要、という意識で撮影を行いました。正直、アートディレクターという立場からはプロに頼みたかったです(笑)。でも、シグマのブランドディレクターという立場、そしてDP2のクリエイティブディレクターという立場からDP2というカメラのコミュニケーションを考えたとき、逆に「プロ臭さ」を排除するべきだと考えたわけです。そしてこれはシグマ社の持つ「誠実さ」の具現化でもありました。

色々困難もあったわけですが、自分が取り組んだ結果として、沢山の方々から「カタログの写真を見て買うのを決めました」とか、「あんな写真が撮れるならと思って購入しました」といったメールやflickrへのコメントを頂けたことをうれしく思っています。すべてはシグマ社をはじめ、数多くの方々の心強いサポートのおかげでした。ありがとうございました。

Monday, June 01, 2009

ジャチェック・ウツコの言葉

ジャチェック・ウツコは、ポーランドのグラフィックデザイナー。東ヨーロッパの多くの新聞をリデザインして数多くの賞を受賞しただけでなく、購読数を100%まで増加させた彼が「デザインは新聞を救えるか?」と題して「TED」で行ったスピーチ。



新聞は今にも死絶しそうです。読者は古い情報にお金を払いたがらず、広告主もそれに従っています。それよりも携帯電話やパソコンの方が、新聞の日曜版より、よっぽど手軽です。さらに森林も保護しなければならない。これではどんな産業もダメになってしまうでしょう。ですので「新聞を救う術はあるのか?」と質問を変えるべきです。

新聞の将来について、幾つかのシナリオが考えられます。ある人は「無料であるべきだ」と言ったり、「タブロイドか、もっと小さなA4サイズがいい」、「地域コミュニティごとに発行する地方紙がよい」、「小さなビジネスなどニッチを狙うべき」と言う。しかし、無料にならずとも、とても高コストになってしまう。「新聞は意見主体であるべきだ」、「ニュースは少なく、見解を多く」とか、「出来れば朝食のときに読みたい」、「後の時間は通勤の車の中でラジオを聴くし、会社ではメールチェック、夜はテレビ」…。どれも良さそうに聞こえますが、どれも時間稼ぎにしかなりません。長い眼で見たら、新聞が生き残るべき実際的な意味はないと思うからです。そこで我々に何が出来るのでしょうか?

私はこうしました。20年前、ポニーエというスウェーデンの出版社が、旧ソ連圏で新聞を始めました。そして数年後には中央と東ヨーロッパで複数の新聞を発行するようになりました。それらは経験の浅いスタッフによって運営され、レイアウトなど「見た目」を重んじる文化がなく、かける予算もありません。多くの新聞にはアートディレクターすらいませんでした。私は新聞のアートディレクターになろうと決めました。それ以前、私は建築家で、祖母に一度「お前は何で生計を立ててるの?」と聞かれたことがあります。私は「新聞のデザインをしているんだ」と答えました。「デザインするものなんてないじゃない。つまらない活字だけ」。彼女は正しかった。私はフラストレーションを貯めていました。

ある日、ロンドンに来て「シルク・ド・ソレイユ」のショーを見た時、大発見をしたのです。「こいつらは『気味の悪い、しけた興行』というものを、考えられる限り最高の『パフォーマンスアート』に仕立て上げた。だから『つまらない新聞』でも同じことが出来るかもしれない!」と思ったのです。そしてその通りにしました。一つ一つデザインし直したのです。一面が我々の特徴となりました。私が読者と近い距離で対話するための私的なチャンネルでした。ここでチームワークや協働について話すつもりはありません。私のやり方はとても利己的でした。私はアーティストとして主張がしたかった。私なりの現実の解釈を示したかった。新聞ではなく、ポスターが作りたかった。雑誌ですらない、ポスターです。我々は文字の見せ方やイラストや写真でも常に実験していました。とても楽しみました。

そしてそれらはすぐに結果をもたらし始めました。ポーランドでは「カバーオブザイヤー」に3年連続で選ばれ、ラトビア、リトアニア、エストニアなど、中央ヨーロッパでも評価されました。私たちの秘密は、特徴のある一面だけではなく、新聞全体を、ひとつの作品として扱っていたことです。まるで楽曲のように、リズムや起伏があります。デザインは、これを読者に体感させる責任があるのです。ページをめくりながら、読者は色々なことを感じる。私はその体験に責任を持っているのです。

私たちは、見開きをひとつのページと捉えています。それは、読者がそのように感じているからです。このロシア語の新聞の見開きは、スペイン最大の情報デザインアワードで受賞しました。中でも一番は「ニュースデザイン協会」の賞でした。ポーランドでこの新聞をデザインし直してから、一年もたたないうちに、世界一素晴らしいデザインの新聞となったのです。二年後にはエストニアの新聞でも同じ賞を頂きました。すごくないですか?もっとすごいのは、これらの新聞の購読数が、どんどん増えていったことです。

たとえば、ロシアでは1年後に11%増、リデザイン後3年目には29%増です。ポーランドも同様で初年度13%増、3年目に35%増加しました。このグラフを見てお分かりの通り、何年もの停滞期のあと、リデザインするや否や、新聞は「成長」し始めました。中でも1番のヒットはブルガリアの、100%増でした。これはすごかった。

デザインがこれを成し遂げたのでしょうか?そうではないのです。デザインはプロセスの一環に過ぎません。私たちがとったプロセスは、外見を変えるだけではなかったのです。商品を完全に改良することでした。私は建築における「機能」と「カタチ」の鉄則を、新聞の「コンテンツ」と、「デザイン」に応用したのです。さらに、その上に戦略を乗せました。

最初に、大切なことを思考します。「何のためにやるのか?目標はどこにあるのか?」そこから「コンテンツ」を調整していきます。その後、2ヶ月後ぐらいにデザインを始めます。ただ原稿を求めるだけでなく、なぜこんなにビジネスの質問をしてくるのだ?と最初は上司たちはすごく驚きました。でもすぐに、これがデザイナーという役割なのだと理解されました。プロセスの最初から最後まで関わることです。

ここから得られる教訓とはなんでしょう?まず最初の教訓は、デザインは商品を変えるだけでなく、ワークフローを変えることが出来るのです。つまり、会社のすべてを変えてしまえる。ブランディングも会社そのものも変えることが出来る。さらに、あなた自身も変えてしまえるのです。誰がそう出来るか?それはデザイナーなのです。デザイナーに権限を与えてください。

二つ目の教訓。こちらのほうが重要です。皆さんも私のように貧しい国に住み、小さな会社の、つまらない部署で働きながら、予算も人材も、何もないところで、それでも自分の仕事を最高のレベルに持っていくことは可能なのです。誰でもできます。必要なのは、ひらめきと、ビジョンと、決断力だけです。そして、ただ「良い」だけでは足りないと覚えておくことです。ありがとうございました。


このプレゼンテーションを数十回も繰り返して見ている。何度見ても、熱いものが自分の中から立ち上ってくる。デザインという手法を携えてコミュニケーションに関わりながら、逃げ道を確保し続けていた自分を見返り、企業に関わる自分の立ち位置を根本的に変えよう!と決意した日のことを思い出す。自由を求めるところに存在しなければならない責任。