いま、これを書いている三時間後にあたる1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒。この時間は、忘れられない。twitterでその記憶を思いおこしながら連続で呟いた。
1995年の今日、神戸で何があったのかを、どうか見て欲しい。 http://bit.ly/fVqPOW みんな精一杯だった http://bit.ly/gunwJQ 1995年のちょうど今ぐらいの時間は翌日午後のプレゼンのために大阪の事務所でデザインしながら徹夜してた。明け方どっかーんと来て、揺れが延々止まらなくて地べたに這いつくばった。沢山の人が死んだ。火葬場が足りなくなった。合掌。
関西人よ、あの震災のことを、どうかずっとずっと語り継いでおくれ。それが亡くなった方々への供養になると思う。誰もあんな地震が来るとは思ってなかった。でも起こった。えーって思う間もなく圧死した人々のためにも、忘れないで祈り手向けてあげて欲しい。
揺れが収まってあちこち安否確認してたら突然電話が通じなくなった。テレビつけたらこれが流れてた。唖然とした。一瞬、これは戦争だ、ミサイル打ち込まれたと思った。 http://bit.ly/gLUUHr とにかく情報が足りなかった。でも民放テレビのヘリコプターは正直消えてくれって思った。ヘリの騒音で助けを求めてる人の声がかき消されてた。ヘリに向かって瓦礫を投げつける人も沢山いた。多くのための報道という意味と目前の命が天秤にかけられた瞬間。忘れられない。
1995年は日本ではインターネットは始まったばかりだった。僕はすでにアカウントを持ってたけど、誰もかれもが電話しかなかった。明石に住む友人は、神戸が不通になったので北に登って日本海側から南下して大阪まで一日がかりで辿り着いた。インフラはぐちゃぐちゃだった。
揺れが収まると、みんな自分が生きてるってことを喜び合った。でもその直後にどう生き続けるかに気づいた。みんなコンビニに走った。あっという間にすべて売り切れた。大阪から水やコメを担いで神戸に向かった。でも西宮からは徒歩になった。神戸についてあまりの惨状に泣いた。北野の異人館倶楽部でレストランをしてた友人は店に座り込んでた。何もかもが壊れてた。コメを手渡すと「炊くよ」って言って鍋でご飯を炊いてくれた。それをおにぎりにして三宮に持って行った。水が足りなかった。みんな喉が乾いてた。ものすごいなって思ったのは便所だった。うんこ。小学校の便所はすごかった。水が流れない便器。でも被災した人たちはうんこする。救援物食べるから当然うんこ出る。でも処理出来ない。文字通り山盛り。壁までうんこ。壮絶だった。
震災で亡くなった方々の魂よ、どうか安らかなれ。合掌。
そういえば、ウチの父方の婆ちゃんは、震災の後に大往生したんだけど、関東大震災と阪神大震災の両方体験してたってのを死んでから聞いてすげーって思った。婆ちゃんのとこに行くと必ず神戸ビーフ焼いてくれた。懐かしい。トイレの神様聞いて思い出す婆ちゃん。
いずれ東京で、あの規模の地震が起こると思うと、ほんと切ない。僕はその地震で死ぬかもしれないし生き延びるのかもしれない。それよりも確実に阿鼻叫喚が起こり、それが連鎖してあらゆるものの価値がリセットされる。関西人は経験済みだけど、それに東京人は耐えられるのかわからない。地震は天災。でも阪神大震災の被害は単に天災と言うにはひどすぎた。その後、法的にも色々整備されたけれど、備え万全かと言えば、ほとんどの人が無防備って状態だと思う。おまいら、せめて避難場所ぐらいは確かめとけ。
Monday, January 17, 2011
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私はこの時生活の基板が東京でした。
ReplyDelete次は東京だと思い、京都へ逃げました。
今でもキーホルダーには笛を付けてます。
天災は忘れた頃にやってくるどころか、お構いなしに必ず来るものですよね。