Saturday, March 05, 2011

魯山人「個性」

最近、iPhoneの電波が悪い時、無理してtwitterやニュースを読まず、なるべく青空文庫の古本を読むようにしている。そうしてみると、最新の情報を得る中での気づきよりも、何十年も積み重なった叡智から滲み出る言葉に触れる中に、はっとする事の方が増えている。

先週は、忙しく仕事を進めながら、合間合間に北大路魯山人の随筆を読んでいた。たとえば「だしのとり方」という短い文章の中にも気づきがあったし、「フランス料理について」では当時のフランス料理を「あほか。何もかもなっとらん!」と一刀両断に斬って捨てる中に、物事を判断する「幅」と「視座の高さ」という両面を教えられたように思う。その青空文庫で読める魯山人の随筆の中に「個性」というものがあった。

書き出しは「ある晴れた日の午後であった。と、こう書き出しても、芥川賞をもらうつもりで、文学的に書き出したのではないから心配しないでくれ給え。いったいこのごろは、何賞何々賞というものが多過ぎるようだ」と、いつもの魯山人節で、楽しく読み進めていたのだが、途中から、書かれていることの重さに気づいた。そして、読み終えて、冷や汗のような変な汗が出た。魯山人おそるべし。

型の大切さとは、積み重ねられた中にある本質を指す。そこには幾多の研究が繰り返され、少しづつ少しづつ「これで良い」とされてきた物語がある。僕自身も「伝える」という技術において、基礎という意味での「型」の大切さをずっと説いてきた側だ。それを正しく踏まえてこそ、という思いは今も変わらない。しかし魯山人は、明瞭に「型にはまって満足するな、精進を怠るな」とここで語っている。料理の世界で言えば、先に書いた「フランス料理について」で魯山人が指摘した部分を反省し、現代のフランス料理が生まれ育まれて来たことは明らかだ。

ではデザインにおいてはどうだろう。「型にはまって満足するな」という強い意志が、今のコミュニケーションデザインの世界にあるだろうか。はたして新しい「伝える技術」を開発しているのはデザイナーだろうか。新たなデバイスでの表現が、さも最新の「伝える技術」を開発しているように勘違いしていないだろうか。OSやメディアという「型」の中で「作法」として規定された状態の中に、デザイナーは安住しているだけではないのか。料理人ではなく美食家である魯山人の指摘をまっすぐに受け止めるとするならば、デザイナーは、本来、もっと高い視座を持って、「先端技術」の方向を指し示す立場に、自らを昇華させていくべきなのではないか…と、僕の中での連想は延々と連鎖し続けた。

以下に汗が出た部分を引用しておく。また、読みやすくするために勝手に改行を加えている。この「個性」の全文は青空文庫で読むことが出来る。僕が勝手に冷や汗するような読み方が正しくないのはわかっている。でも読む人が読めば、僕と同じような変な汗が出る気もする。さらに最近の若い人たちの中での「個性」とは何かのところで、どうでもいい議論の多い中、この一文に触れておくのはいいことではないかと思う。

 「わたしはどこへ行っても、子供におじぎをされますよ。どこへ旅行しても、わたしは子供たちの目からは学校の先生に見えるのですね」

 わたしは感心したり、寒心したりした。先生、という型にはまりこんでしまったひとを、わたしは立派だと思ったが、同時に大変さみしく思った。型にはまったればこそ、型にはまった教育を間違いなくやれるのだ。だが、型にはまってしまっているがために、型にはまったことしかできないのだ、と、思った。

 料理だって同じことだ。型にはまって教えられた料理は、型にはまったことしかできない。わたしは、決して型にはまったものを悪いというのではない。無茶苦茶な心ない料理よりは、まだ型にはまったものの方が見苦しくない。

 大学を出ない無知よりは、同じ大学を出た無知の方がましだ。だが、大学に行っても自分でやろうと思ったこと以外はなにも身につかないものだ。本当にやろうと思って努力するひとにとって、学校は不要だ。学校は、やらされねばならない人間のためにある。自分で努力し研究するひとなら、なにも別に学校へ行かなくともよい。

 とはいうものの、習ったから、自分でやったからといって、大きな違いがあるわけでもない。字でいえば、習った「山」という字と、自分で研究し、努力した「山」という字が別に違うわけではない。やはり、どちらが書いても、山の字に変わりはなく「山」は「山」である。

 違いは、型にはまった「山」には個性がなく、みずから修めた「山」という字には個性があるということである。みずから修めた字には力があり、心があり、美しさがあるということだ。型にはまって習ったものは、仮に正しいかも知れないが、正しいもの、必ずしも楽しく美しいとはかぎらない。

 個性のあるものには、楽しさや尊さや美しさがある。しかも、自分で失敗を何度も重ねてたどりつくところは、型にはまって習ったと同じ場所にたどりつくものだ。そのたどりつくところのものはなにか。正しさだ。

 しかも、個性のあるものの中には、型や、見かけや、立法だけでなく、おのずからなる、にじみ出た味があり、力があり、美があり、色も匂いもある。

 いや、習いたければ習うもよい。習ったとて、やはり力を、美を、味をと教えてくれるだろう。気をつけねばならぬことは、レディーメイドの力や美を教えこまれぬことだ。型から始まるのも悪くはないが、自然に型の中にはいって満足してしまうことが恐ろしい。

 型を抜けねばならぬ。型を越えねばならぬ。型を卒業したら、すぐ自分の足で歩き始めねばならぬ。

 同じ型のものがたくさん出ても日本は幸福にはならぬ。山あり、河あり、谷ありで美しいのだ。しかも、山にも、谷にも、一本の同じ形の木も、同じ寸法の花もない。しかも、その花の一つ一つは、初めはみな同じような種から発芽したのだ。芽を出したが最後、それらのものは、みなそれぞれ自分自身で育ってゆく。

 習うな、とわたしがいうことは、型にはまって満足するな、精進を怠るなということだ。

 この本を読んだからとて、決して立派になるとはかぎらない。表面だけ読んで、満足してしまってはなお困る。実行してくれることだ。そして、それぞれに研究し、成長してくれることだ。読みっぱなしで分ったようなつもりになってくれては困る。

 それでは、個性とはどんなものか。
 うりのつるになすびはならぬ――ということだ。

 自分自身のよさを知らないで、ひとをうらやましがることも困る。誰にも、よさはあるということ。しかも、それぞれのよさはそれぞれにみな大切だということだ。


出典:底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所 2008(平成20)年4月18日第1刷発行

2 comments:

  1. 引用のところを、もっと見やすくしたいんだけど、いまく出来ないなぁ、、、。

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