
さて、今日、このエントリーで書こうと思うのは、DP1 / DP2が持つオリジナリティの、もう一つ重要な側面である、「写真を撮るスタイル」についてです。
カメラ売り場に行くと、「ぱっと取り出して、ちゃちゃちゃっと写真を撮る」というスタイルの延長線上にある「カンタン!お手軽!綺麗!失敗しなーい!」というデジタルカメラが、びっくりするほど多種多様に売られています。薄くてカッコいいカメラ。ブログにそのままアップできるカメラ。少々暗い場所でも綺麗に撮れるカメラ。夜景に同期して適正なストロボ発光が得意なカメラ。旅行先で充電の心配がないバッテリー消費の少ないカメラ。高速連射が出来るカメラ。ありえねーっていうぐらいにズームアップが可能なカメラ。さらに、顔を検出してピントを外さないカメラ。さらに笑顔を見つけてシャッターを切るカメラとか、その便利さや付加的機能の多様さには、もう、本当にすごい進化だなぁと思います。ちなみにDP1にもDP2にも、上記のような付加的な機能は一切ありません。短焦点レンズで、ズームも出来ない。カメラは勝手な補正をしませんので、ちゃんと失敗写真を記録します(笑)。でも、僕はこの「失敗できる」という素直さも、実はDPシリーズの大きな独自性だと考えています。

たとえばファッション撮影というケースで言えば、G9やF200EXRは、あくまでも「ロケハン用」のカメラでしかありません。情景だけでなく、回りの状況や、太陽の角度や、本番撮影で障害になりそうな要素の記録など、とにかく気になったものを、JPEGモードで、どんどん撮って、後でそれらをパソコン上で並べ替えたりしながら、撮影する順番を決めたり、コーディネーターやスタイリストに細かな依頼を行ったりするのに便利な道具、という感じでしょうか。でも、それらのスナップカメラでは、「作品」は作れないのです。コントラストを自動で調整するようなカメラでは、意図した写真の構成は台無しになってしまいます。また、「何を撮っても同じような写真」と感じるような、立体感のない写真になってしまうカメラは、「手軽に記録としてぱちぱちと撮る」という用途にしか使えません。

この「作品性」というものが何なのか。とても抽象的な言い方なのですが、この言葉しか見つけられません。主観的であり、基準も曖昧なものです。ただ、ひとつだけ言えることは、DP1 / DP2を使った写真のほうが、「なぜ撮ったのか」という理由が、写真から感じられるのです。構図や、質感や、露光の焼き具合といった、「絵」としてのテクニカルなことを超えたところで、自分でも後で気づくような「何に惹かれたのか」の理由や、「そのときに感じていたなにか」が、写真から伝わってくるかどうか。その、僕なりの基準でしかない「作品性」という感覚に、今のところ最も応えてくれるのが、DP1/DP2というカメラで撮った写真に多いのは事実です。自分の撮った写真を、自分の「作品」としてどうなのか、という視点でみたとき、実はDP1で撮影したものの方が、納得の行くものとして残っているのです。
そう感じる理由のひとつは、おそらく「見たままのものが、そのまま写っている」からなのではないか、と思います。「そのまま写っている」という定義も曖昧なのですが、そうとしか言えないのです。なぜなら、X3FというフォーマットのRAWデータを、専用の現像ソフトを使い、シャッターを切った、そのときの光の具合を思い出しながら色温度やコントラストを調整すると、撮った場所の温度や湿度、さらには風や臭いのようなものまでが、写真が語り始めるのです。

さて、もちろん僕はフィルムの時代から一眼レフカメラを使ってきました。デジタル一眼レフもCanon EOS 10Dの時代から、色々と使ってきていますので、職業はフォトグラファーではありませんが、ある程度のものは撮ることが出来ます。でも、やっぱり一眼レフカメラは「デカい!」んです(笑)。それに「重い!」です。さらに一眼レフカメラには「ものすごい存在感」があるわけです。「一眼レフカメラを肩から提げて歩く」って、もう、「撮るぞ!」っていうスタイルそのもの。街でもそういう方々を見かけますが、ぶっちゃけ言ってお洒落じゃないんですよね(笑)。もっと言えば、お洒落なファッションと、その一眼レフが持っている存在感が、調和していない感じになってしまうわけです。
これは、僕は、一眼レフカメラの持つ、ある意味で「致命的」な要素だと思っています。だって、ぶっちゃけ変ですもん(笑)。たとえば旅先で、プラダのキレイなプリント柄のワンピース着ている女性が、重火器みたいな一眼レフカメラを肩から提げて歩いているって、それがご本人のファッションとしての自己表現なのであれば、それはそれでいいのですが、やっぱり違和感を覚えざるを得ません。

その点では、DP1とDP2は、明らかに持ち歩きやすく、同時に「いつでも作品としての写真が作れる」という安心感があるので、最近では、一眼レフを持ち歩く必要を感じなくなってしまいました。でも、よく考えると、これは自分にとって大きなスタイルの変化だなと思うわけです。どこでも、どんな時でも、どんな場所でも「作品」が作れる。これは大きいです。明らかに僕の撮影のスタイルを変えてしまっている。これは、DP1/DP2の持つ、大きな「独自性」のひとつではないでしょうか。
ちなみに、このエントリーにつけた写真は、いずれもDP2のカタログのためにインドネシアで撮影した一連の写真の中から選びました(サイズは半分の大きさに縮小しています)。しかし、どれも自分の美意識からすると「作品性」の低いものです。カタログに使用するかどうかの基準では、明らかにセレクトから外れるレベルの写真ばかりなのですが、自分にとっては、どの写真も「何を撮ろうとしたのか」や、その場の音や風などが、記憶の中で立ち上がってきます。それは、ふと「なんか撮れそうなモチーフだな」と気づいたり、それからじっと被写体を見て「どう構成したらいいかなぁ」と、カタチや色や状況をじっくりと観察する。その「被写体に向きあい、考える時間」が、自分の「作品性」のようなものを醸成しているような気もしています。そしてそれは文中に書いたような「付加的な便利さ」を、ある意味で潔く持たないDP1やDP2を使うからこそ、その、気づく力、考える力、そして写真を練る時間に結びついているのかもしれません。写真って面白いですね。