Monday, November 17, 2008

家紋ジェネレーター

日本コカコーラの日本茶「綾鷹」のサイトにある「家紋ジェネレーター」。っていうか、どういう生成プログラムなのかわからんし、生成されるもの自体の説得力がないわ。

ちなみに、左の画像は直リンで貼っているが(いつ消えることやら)、これをジェネレートした名前は、苗字「おまえら」+名前「ふざけんな」さんとしてみた。生年月日は僕のものを入れてみたが、「あなたの家紋はこちらです」で、「【カーテン紋】 ヒラヒラと風にそよぐカーテンのように、優しく穏やかなカーテン紋のあなた。時に優しすぎて、自分の意見を強く主張出来ないのも特徴。そんなカーテン紋の今後は・・・新たなる再出発の予感。怖がらずどんな事にも挑戦してみてください。きっと居心地の良い場所が見つかるはずです。」だそうだ。わけわかんないよね。

ちなみに僕は「綾鷹」好きです。高いけど美味しいから売っていたら買う。っていうか売ってないコンビニ多いんだよね。

MEDIAS: NEC

MEDIASは、NECの携帯電話の新コンセプト、らしい。ここはそれを伝えるサイト、らしい。私はメディアです、だってさ。その日のニュースを喜怒焦悲の四つの感情に振り分け、その感情を音とダンスで表現。ブログパーツなどのコンテンツも今後公開予定、ってことらしいんだが、ストレートに理解すると、喜怒焦悲の四つの感情「しか」表現できない携帯電話を目指しますってことになっちゃうんだけど謎です。っていうか「その日、話題になってる」 ってのが気分が集まる場の情報じゃなくてアチコチのニュースのタイトルだぜ。さらにそのニュースが前日とかでライブ性が皆無…。昨日の情報なら新聞でいいわな。今日の情報も携帯でニュース読めばいいわな。そもそも「私はメディアです」ってのを訴求する目的からすると、やってることの根底から大きくコケてるわけで、これで仕様を決めて公開まで行っちゃうってのが信じられん。っていうかコンセプト伝達に、こんな回りくどいことするってこと自体がマスターベーションな作りになってて正視できん。ひさしぶりのダメダメ仕事を見た。いやー、しばらくWeb業界ってのを注視してこなかったけど、こんなのが世の中に出てるってこと自体かなりWebの業界やばいわな。

Saturday, November 15, 2008

K-photograph

K-photograph」。なんとなく気になったひと。大阪の人。フィルムカメラの味。

Friday, November 14, 2008

Information Design

インフォメーションデザインの優れ系。
019_Ressourcen
023_EXPO 2010

2008年12月17日にブライトコーブTVがお亡くなりになったので、どちらも見れません。あしからず。

Tuesday, November 11, 2008

Foveon買収

今日、Foveonの買収を発表。基本的なスタンスを決めてからデューデリジェンスに入るまでも長かったですけど、急激な円高とか色々あって、ホントここまで長かったなーって感じます。ブログには絶対に書けないし、言えない話だらけなので、あっさりしたエントリーですけど、本当に良かったです。最終的に円満に話がまとまたのはやっぱり山木さんの人徳だと思います。おいら感動してます。ちょっとうるる【謎】な感じです。おつかれさまでした。引き続きがんばって行きたいと思います。

El camino del Rey


トザキのブログに貼られていて知ったけど、これ相当怖い。もう見ている最中にお尻と背中がゾクゾクしてしまってどうしようもない。しかし根性あるよな。最初のあたりは石段で「ふーん」って感じだけど、徐々に岩肌をなめるようなところになり、途中でその足元に穴が開いてて、実は歩いてるのは板一枚ってことに気づく。おれ、たぶんもうこの段階で、脚がすくんで前に進めないと思う。それか、岩肌に巻いてあるチェーンを掴んでそろりそろりと行くしかないかな。なんとか登りきって渡るところから、今度は向こう岸を下るんだけど、くだりのほうが絶対怖いね。っていうかありえない。足元の石の板とか薄すぎ。がんがん割れてるし…。これは修験道だ、、、。

追記:2008年12月17日にブライトコーブTVがお亡くなりになったので、もう見れません。あしからず、って思ってたけど、YouTubeで探したらあった。画質はブライトコーブの方が全然良かったけど、まぁこんな感じということで、動画を張りなおしました。

Sunday, November 09, 2008

Michel Chantal

マイケル・シャンタルは、揺るがない作家性を保ち続けている写真家だと思う。多くの作品がオフィシャルサイトで閲覧できる。キャプチャしたものは130cmx130cmのプリント作品。

Friday, November 07, 2008

Samsung Packaging


実際のパッケージにこんな演出を与えられたら本当に楽しいだろうなー。

Wednesday, November 05, 2008

Why designers fail

Scott Berkunのリポート。内容は、デザイナー(35.2%)、プロジェクトマネージャ(49%)、プログラマーなど様々な役職300名を対象に41の質問に対してデザインが失敗する理由と思うものに5段階のスコアをつけるというアンケート。平均のスコアが高かったのは以下の10項目。

1. デザインをしない方がデザインの決定権を持っている 4.18
2. デザインの知識がないマネージャが決定権を持っている 4.14
3. デザインをする前に十分のデータ分析をしないデザイナー 3.92
4. 長期的な効果を考慮する時間がない 3.81
5. 重要なフィードバックを聞き入れない 3.69
6. ビジネスの基礎条件に関する認識が低い 3.66
7. 口先だけの「利用者中心のデザイン」 3.64
8. 失敗や実験が許されない環境 3.62
9. たくさんの人が関わりすぎてデザイナーの力が弱い 3.60
10. ひとつのデザインスタイルに頼り過ぎ 3.54

Tuesday, October 07, 2008

As much as possible

出来る限り、傷つく人の少ない解決を目指したいと思っております」。これは、以前僕が抱えた大きな問題の解決のために、信じられないほど幅広くに力を注いでくださったある弁護士の言葉。僕は自分の力だけではどうにも解決できないような問題を複数抱えていたが、それらの解決のために尽力してくださって、すべて解決した。さらに僕は彼に複数のクライアントを紹介したが、その都度、個々の要件に対する姿勢に感服してきた。弁護士として白黒をはっきりとつけて行かねばならない立場にありながら、彼の姿勢は、常に裁判や調停までの時間を使って、いかに問題に関わる関係者の意識を変えていくかに向けられていた。彼のそうした姿勢を目の当たりにして、僕は、そもそも訴訟になるような問題というのは、そこに介在する人間たちの「我」の噴出に拠るところが多いのではないだろうか。冷静に常識に照らし合わせれば、訴訟にもならないようなことが何かのキッカケで「許せない」というものに変わってしまう…。また、起こってしまった事象でも、その背景にあるのは「我」が引き金になってることが多いようにも思う。例えば、後先を考えずに約束したり、金を借りたり…。そういうことを検察官から弁護士になった彼は、きっと嫌になるほど数多く見てきたのであろう。そして、そこから「なぜこの問題が起こったのか」を見る眼に、人間の持つ性としての「我」の存在を見分け、それを個別にできるだけ納得させながら、可能な限り問題を「小さく」していく努力をする。さらにどんなに状況が悪くても、彼は最後の最後までそういう姿勢を変えることがない。そんな彼から学ぶものは多い。それだけでなく、彼のように要件に向かう姿勢を持つには、そもそもの「徳」が必要なのだと痛感する。

Thursday, June 05, 2008

UT LOOP


Tuesday, May 13, 2008

Robert Rauschenberg

ラウシェンバーグが死んだ。あの若き日のウォーホールの写真が貼られた作業台。手入れの行き届いた絵筆の数々…。15年前、直接関わったときの、あのフロリダの広々としたスタジオで作業するロバートの姿を思い出す。アヴェドンらに続いて20世紀の表現を担った人たちがどんどんいなくなる。

Sunday, August 26, 2007

ART

芸術とは、もともと人間の煩悩に根ざすものではないか。煩悩の泥水を吸って咲く花が芸術といえよう。」今井幹雄「霊験」43頁より。これ以上に「芸術とは何か」を言い表す言葉があるだろうか…。

Sunday, April 30, 2006

Ajax Google Maps

高橋師匠、ご無沙汰してすみません。ずいぶん老けちゃいましたなぁとか思いながら(汗)すごいことをあいかわらず解説してくださっていて、ご健在ぶりになんともほのぼの。[ Ajax Google Mapsを自サイトに設置する ]

Monday, April 10, 2006

Penn Works

僕がアーヴィング・ペンという写真家のことを知ったのは、実はそれほど早くはなかった。たぶん28歳ぐらいだったのだと思う。当時は今のように情報が溢れているわけではなかった。検索と言うツールもまだまったく手に入らなかった時代だ。初めて自分が海外ロケにアシスタントディレクターとして出向いたときのフォトグラファーだった福島氏が、東京の柿の木坂に「ペンスタジオ」という写真スタジオを建てた時に遡るのだと思う。スタジオの完成披露のお祝いに訪ねたとき彼はリングライトで撮られたあの名作「Flowers」について色々と僕に語ってくれた。五味さんの無二の親友であり、彼とパリで一緒に貧乏ながら写真を学んだ福島氏には、写真に対しての確たる基礎があり、同時に彼が静物写真から考えたアプローチを持って人を撮るところに僕は多大な影響を受け、僕のその後の写真に対する考え方の基礎を教えられたように思っている。以後、彼とは何度も撮影した。ロケに行くたびに、彼が考える絵づくりのために考えている視線をなぞることは、後々僕がアートディレクターとして写真をディレクションして行く上で重要な勉強だった。ペンのことはまた改めて書くことにしよう。でも、この一枚の写真はペンの写真の中でも好きな一枚だ。

Tuesday, April 04, 2006

Shibuya Seibu Wall Arts

ふとしたキッカケで西武百貨店・渋谷店の壁のあちこちに、かなりイケてる感じの現代美術の作品がかけられていることに気づいた。普通に目にする場所は、モノを売るのが彼らの仕事だから、当然すべて売場になってる。アートが潜んでいるのは階段の脇のホールやトイレへの通路を曲がったところなど、普段はほとんど使われないか目にしないような場所にかけられている。僕が気づいたのは地下一階の靴修理コーナー前のアクリルペイントの作品と、婦人服売場の奥の壁にかかっているボードグラフィックな幾何学ペイントなのだが、こんど時間のあるときに館内をそういう目で回ってみようという気になった。

Sunday, March 26, 2006

Modern Painting.

現代美術とルネッサンスの中間にある近代絵画について学習し直すことで、大学で学んだ西洋美術史の講義ノートを持ち出すまでもなく一応アタマの整理がついた。写実主義の最後にラファエロの影響を強く受けたところから、印象派の終期まで。その後の抽象や色彩概念あたり。

Friday, March 24, 2006

Yoichi Nagasawa

これは2004年に発表された作品だが、これを初めて見たとき、その美しさと完成度に息を呑んだ記憶がある。ファッションデザイナーの作品と言うのは、それこそ星の数ほどに作り続けられるもので、さらにそれがメディアを通じてのプロモーションに載るために、新鮮だと思ってもいつのまにか記憶の彼方に消えてしまう。それこそがファッションの王道であり、そうだからこそファッションなのだが、この作品は忘れがたいものを持って今も僕の脳裏に焼きついている。まさに視覚を通じた経験を得たと言えるだろう。このデザインを形にする執念と言うか、努力と言うか…。こうしたイメージが頭の中に浮かんだとしても、それをこの完成度に昇華させるのは並大抵のことではない。ものすごい力を感じるとともに、これが具現化され、こうして自分に強いインパクトを与えてくれたことに感謝の念を持つ。さらにこの作品を見ていて、どこか気のようなものを想念するのだ。そうしたものを日本人が表現していこうとすることはとても自然なことのようにも思う。欧米の世界観は見えるものを見えざるものへと拡張する方向を持っているように思う。それに対して、見えざるものを見る能力と言うのだろうか。そうした感覚は日本人が古来から持ったもののようにも思えるからか、この作品に対したとき、ただ美しいとか、繊細だとか、優美だと言うことだけでなく、ゆらめくものを見いだして心酔してしまうのかもしれない。

Wednesday, February 22, 2006

Sony Bravia

アメリカで放送されたソニーのテレビ「ブラビア」の広告。専用サイトが立ち上がっている。シスコの街にゴムボールをブチまけたと一時話題になったが、改めて見直してみると、どうでもいい演出やら、ヘタくそなカメラワークやら、色感の弱さなどが目に付いて、なにがどうだという仕事には思えなくなってしまった。特に高解像度の150秒版を見た印象は正直がっかりである。やっぱりもっともっとタイトな構図にするべきだろうし、色が重なる場面ももっと鮮やかさを感じるフレーミングであるべきだと思う。そもそも、なんでわざわざこんな電信柱やら電線やらがごちゃごちゃしてるシスコの一角を選んだのかわからない。この程度の坂道は世界中どこでもある。光も弱いし背景になっている景色そのものは到底美しいとは言いがたい。僕なら迷わず京都とシチリアでやろうか…という情景が浮かぶ。しかしながら、こうした企画の裏側を、広告屋がさもありなんという勢いで偉そうに語っている態度には常に嫌悪感を覚えるのは僕だけだろうか。ソニーのマーケティング担当者が語るのはまぁいいのだけれど、それもソニーぐらいのブランドになると、僕は正直言って逆効果なのになぁ…と危惧してしまう。それは話がコーポレート・ブランディングの域での話なので置いておく。このケースでもソニーの広告ではなく「ブラビア」の広告なわけだから、モノを売るために何が出来るかが広告屋の仕事の中心であるべきだろう。僕の考える広告屋の仕事というのは、消費者に「よくわからないけど気がついたら買っていた」という状態にすればいい仕事であって、「どうよ、どうよ」と消費者に向かって広告屋が直接話しかけるのは僭越極まりない態度だと思うわけだ。そもそも仕掛け側は徹底的に黒子でいなけりゃ話にならないわけで、そりゃイケた仕事をしてます、賞も数多く取ってますというのは、保身のためには必要であろうし、名誉欲もあってもいいと思うわけだが、こうして広告の広告のようなタネあかしを自信満々作ってどうすんですか、なにやってるんですか、というのがホンネのところで腑に落ちないわけだ。

Friday, November 25, 2005

Japan of The Meiji Era

明治15年頃、マーケーザ号という英国籍の大型ヨットが、アリューシャン列島から日本、東南アジア、そしてニューギニアにかけて、海沿いに南下しながら各地を探検する旅行に出ていた。そのヨットの主はヘンリー・ギルマールという英国人の探検家であり、彼の記録には骨董収集目的で日本を訪れた意図があったと残されいる。同時に当時の日本各地も撮影し記録として英国に持ち帰っていた。それらの写真はイギリスのケンブリッジ大学に寄贈されたままずいぶん長い間眠っていたが、先般一冊の本となって陽の目をみることになった。そしてこの本を僕は本当にひょんなことから手に入れることが出来た。

この本を開けてみてまず驚くのが当時の日本の美しさである。人々はもちろん着物姿であり、地方都市はすべて木造の家が立ち並ぶ。横浜や神戸、そして長崎などの街中には洋館が散見されるが、そうした建物の前に立つ街路灯や、洋館の脇に立つ電柱や電線に強い違和感を感じさせる。普通の都市の街並みは、瓦屋根の家が延々と立ち並び、公害もなければ排気ガスもない清々した空気が写真から立ち上がってくる。そしてその澄んだ空気の中で目を引くのは神仏を祀った美しい木造建築の社であり、また畏怖の念を起こさせるに十分に雄大な大自然である。舗装されていない土道の脇には直径5メートル近い巨木が普通に立ち並ぶ。山は聳えたち滝は神々しく流れ落ちる。日本人の原風景とはこういう世界なのだと記憶の彼方にある景色と重なって妙に心を打つものであった。

左上の写真は大阪の心斎橋を撮ったものだ。今では見る影もないが、鰻谷と呼ばれた一帯の風情が見て取れる。この時代にしては随分立派な鉄橋である。それは直後に一行が向かった京都の嵐山の渡月橋などと見比べるとよくわかる。そしてこの頃から一気に日本の風情は崩れ始め、西欧化の波に飲み込まれていったことがよくわかる。もうひとつ驚くのは、この秘蔵写真を撮影したのが日本人であることだ。名前は臼井秀三郎。横浜で写真館を開業していた写真師である。彼の巧みな露出と構図はどこかアンセル・アダムスを思い起こさせるほどに素晴らしい。そこには余計な演出が存在しない潔さがあるのだ。同様の本として有名なのは、スコット南極探検に同行した写真家ハーバード・ポンディングが残した「この世の楽園・日本」という本だろう。ポンディングはまぎれもなく誇り高き英国紳士であった。明治に日本に訪れた多くの外国人は骨董を求めて日本に来ている。だがその骨董を育んだ日本文化に敬意を払わず、同時に日本人を非近代的と軽蔑して傍若無人な振る舞いに明け暮れた。それに対してポンディングは非常に道徳的であったことがこの本を読むとよくわかる。こよなく日本を愛し、数年に亘って日本に住んで、深く日本の文化に尊敬の念を持って接していることがわかる。だが著名な写真家である彼の残した当時の日本の写真は、その多くが余計な演出が入っていて、日本人の僕は限りなく興醒めする。風俗は写し込まれているがどこか絵はがきの域を出ないのだ。そんな写真ではあるが、ポンディングが日本を撮ったのは明治35年頃。臼井が撮った時期からすると20年の歳月が経っているのだが、大都市以外の日本の街並みは大きくは変っていない。

右の写真は彼らが撮影した明治15年の東大寺大仏殿の様子である。建立当時の大仏殿は横幅がこの写真にある伽藍の約二倍あったと別の書籍で読んだことがある。確か現在の大仏殿の中にもそれを再現し、左右に広く高さも大きいこの金堂を中心に、左右に仏塔が立つ小さな建築模型が置かれていたようにも思う。だが戦国の世にその伽藍はたびたび焼失する。そうした戦火に苛まれたのは東大寺が常に日本の仏教において中心的な位置に置かれていたことに拠るが、そのことについてはまた別の機会に書き記す。東大寺大仏殿は本当に何度も伽藍を失っている。そしてその都度に再建された。源氏と平家の争いに於ける消失時の様子に「大仏殿の二階で千七百人が炎に包まれて焼死。不滅の盧遮那仏の頭は大地に焼け落ち身は溶けて山となる」と記されたものが残っているように鋳造の大仏そのものも破壊されてきた。建久六年に大仏殿は再建され、建仁三年には東大寺全体も再建された。しかし永禄十年に伽藍は再び焼失。以後百年にわたって大仏は崩れた姿のままに雨に打たれ露にさらされたままだったという。その状態に心を痛めた人々は多かったが再建には莫大な資金が必要であった。江戸幕府の援助を受けて元禄五年に大仏は再建され、宝永六年に再び大仏殿が再建されるが伽藍は窮屈な姿となった。そしてその後約二百年後の姿がこの写真である。屋根が微妙にねじれているのがとても痛々しい。明治40年にイギリス製の鉄骨トラスを導入して大修理が施されたという記録がある。老朽化して耐え切れなくなった柱を縦に割り鉄骨を挟んで補強するするという大胆な手法である。明治の頃に使うことを許された予算と、激しい痛み方を前にして、当時の棟梁たちは本当に悩んだことだろう。

左の写真も同じく明治15年に撮影されたものである。この大仏は鎌倉のものだが、側面から記録された写真は非常にめずらしいのではないだろうか。この角度で見る大仏は我々が良く知る正面から見る姿とはまったく違った趣がある。何よりも座られた身体が立体的で美しい。そして俯くように少し前かがみになられた姿は、優美さに溢れていて、毘盧遮那仏の大慈大悲のみ心が写真を通じても伝わってくる。温情を湛えた温かな存在として人々の信仰を集めたことが容易に想像できる写真だ。おそらく当時は回りに余計な建物がないため森に囲まれて座る巨大な大仏は遠くからでもこの姿が見えたことだろう。そして参拝するために近づき、正面に立ったとき、その大きさは特別な感銘を人々に与えたと思われる。包み込まれるような法悦を感じたのではないだろうか。一方、マーケーザ号の人々がどのように当時の日本を行脚したかもその写真の中には記録されている。そして鎌倉で一行は大仏の膝の上に登って記念撮影を行っている。彼らはその行為が祭壇の上に土足でよじ登るようなことだとは思わなかったのだろう。また明治維新直後の日本はそういうことも許していいのかどうか迷いが生まれるほどに混沌とした時代であったのだろう。だがきっとそれを当時の日本人は苦々しく思ったに違いない。彼らは当時の日本人を野蛮人扱いしていたが、他国の信仰に敬意を払わない人たちを僕は文明人とは呼びたくない。