赤道近くでの撮影から戻ってきた途端に、いきなりコンピュータが「ぷちゅーん」と死亡したり、日本との寒暖差に耐え切れずで風邪ひいたり、体調悪いまま巨匠相手のスタジオ撮影にクタクタになったりしてる間に、日本の経済は中川大臣という稀代の酒飲みのお陰で大きく動いて、円はどんどん安くなるわ、株価は底なしにサゲるわで、円高で泣いたクライアントたちの複雑な気持ちに思いを馳せつつ、気がついたら50歳になってたわな、っていうこの10日間ぐらいの記録を、いつものようにTwitterのコピペで再現。本当に忙しい状態なのに、自分を忙しいとしないように、しないようにしてる感じが、ちょっと痛々しくも笑える。
■2月18日: ● 普通どこの国でも予算審議を行っている最中、それもこの状況での景気対策+財務関連という状況で「担当大臣が辞任」ってニュースが流れたら、株価は大きく変動するよね。ガイトナーだったら大事だよね。しかし昨日の日本市場は中川辞任を完全に無視した推移。政治不信ここに極まれり…だな。 ● ふひー。昼休みの気分転換に、村上春樹のイスラエル賞でのスピーチを翻訳してみた。思ってたより手間取って昼休みを丸々使ってしまったが勉強になったな。 ● ほらね。GMとクライスラーが、さらに2兆円恵んでくれって言い出した。歴史的に見ても国が特定企業に金出して再建できた例はないのにブッシュが押し切って恵んだわけで、オバマさん的には切りたい話だと思うなぁ。 ● 「総額72兆円、米景気対策法成立」だってさ。超うらやましい。世界で最初に経済を立て直すと豪語した麻生さんは就任4ヶ月経ったけど一銭も予算動かせてないんだぜ。野党も無意味な責任追及ばかり。ホント日本の政治には失望させられるわ。 ● オバマ大統領が議会を通過した72兆円の景気対策法案に署名した直後、NYダウはマイナス264ドルに反応。マーケットが「もっとやれ」と求めてる。ていうか、こういう感じで政治に市場の意思が呼応すんのが普通。日本は政治を無視。極端だよな。 ● そういえば海外でCNNなどで見たニコンの一眼レフのCMが「家族みんなで簡単キレイ」っていう作りで違和感を覚えた。登場するのもシンガポールとインドとイスラエルの家族。そういう国で売りたい気持ちは理解するが、グローバルなイメージとの乖離が大きくて気になった。あとで絶対苦労すると思う。
■2月19日: ● うわー。パリで日本のビジュアル系がフィーチャーされてるってのは聞いてたけど、実際に見ると違和感あるなー。こういうのが加速すると、ラデュレとかでゴスロリとか座ってる可能性あるわけで、うわー絶対に見たくない景色だなぁ…。Comment je fais ? ● 今回の撮影、全部で5334カット。撮ったなー。当然全部RAWで撮ってるから45.7ギガもある。さーて、まずはセレクト。そのあと現像。これまた集中しなきゃ…。 ● 風邪引いた。のどが痛い。咳も出まくりで、昨夜は全然寝れなかった。真夏の場所から日本に帰ってきての寒暖差を甘く見たのと、溜まった疲れが原因と思われる。どんなに熱が出ても今は倒れてられない…ってところが辛いなぁ。 ● ありえない…。パソコンが死んだ。まったく予兆を示さぬまま「ぷちゅーん」っていう突然死…。つかマジですか…。いま死なれるとかなりヤバいんですけど…。
■2月20日: ● 作業データは全部外部ディスクにミラーしてあるので、とりあえず作業マシンをノートブックに移行してみる。InDesignを立ち上げて、文字組みしたりEPSを貼り込んだりと、広告のレイアウト作業ってのをノートブックで初めてやったけど、案外動くもんだ…。こういうのもクラウドに移行できるといいんだけどなー。 ● エディトリアル90ページのレイアウト。けっこう大変かなって思ってたけど、写真を選んでいる時に、アタマでイメージしてた通りに組んでみたら結構うまう収まった。だけど、さすがにこのPCでは、確認のためにPDFを吐き出すのに時間がかかるなぁ。たぶん250MBぐらいの書き出しか…。 ● なんでかな。90ページ構成ぐらいなのにアタマの中が混乱してる。昔は200ページぐらいのエディトリアルはだーっとラフ描いて悩まず作れてたのになぁ。複数やってるからかな。能力の下方修正せなあかんかなぁ。まずは54ページ分まで出来た。72ページまで出来ると後が楽になるから、もう一息。 ● げげ。GM傘下のサーブが経営破綻だと。GMの金融支援要求をスウェーデン政府が蹴ったらしい。そりゃ認めんわな。しかしこうして実際に潰れ始めると心理面で影響大きいな。あそこは大丈夫なんか…っていう目線になるもんな。
■2月21日: ● うわっ「中国が外国人のチベット訪問を全面禁止」だって。ついこの前、外国人ジャーナリストが解禁になったというニュースがあったから、今の忙しい状態を乗り越えたら行こうと思ってたのになぁ…。 ● さてさて、今日は午後から前回スタジオでど集中してゲロ疲れた巨匠との撮影。いつも巨匠はこちらの想定以上にかっこいいライティングするから、つい、もっとかっこよくしたくなってハマる。現場でイメージが湧きまくる。今日も、あの心地よい時間にしたい。 ● 巨匠はやっぱ巨匠だわ。仕事上での判断がとにかく速いってのは経験豊富なプロとしては当然なんだけど、ライティングを変える時にアシスタントへの指示がすげー細かい。つまり巨匠の脳裏には全部見えてるってこと。これを自分に置き換えると、もちょっと努力しなきゃならんなぁと思わされる。
■2月22日: ● フレクスキュリティ。後で調べること、と旅先でメモった件。池田信夫がまとめてくれた。デンマークでは失職に対する不安が皆無に等しいというドキュメンタリーは衝撃的だった。自分に合った仕事に就く機会を何度も試せる社会。うらやましい限りだ。 ● NHKのBShiでハイビジョン特集の「南極・白い大地で黒い太陽を見た」が再放送されてる。この番組、前に見てちょっと感動したんだよね。日食そのものが、星の大きさの比率が揃うからという奇跡の現象。古代には天の怒り。近代ではアインシュタインの相対性理論実証の出発点にもなった事象。
■2月23日: ● おいおい麻生さん、「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒の写真、こっちは犬と子どもと一緒の写真。両方家族ですって。おばあちゃんと犬は同じか。こんなふざけた話がどこにあるんだと言った」ってアホかよ。犬は家族なんですよ。それも昔から。犬は人の家族となることで今日まで生きてきた動物でっせ。 ● きたー!文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門で大賞だった「つみきのいえ」がアカデミー賞の短編アニメーションを受賞したよ。やったね!加藤くん頑張った!ロボットも頑張った!よかったー! ● ふぃー。海外広報用のプレスキットを完成させたぞぃ。今回の仕様はモードブランドのフル・プレスキットと同様のしっかりしたもの。このクライアントの業界で、こんだけ充実したプレスキットはまず存在しないから、どういう結果が出るかが楽しみだわぁ。 ● 2008年8月、アフガニスタンで殺害された伊藤和也さんのドキュメンタリー。大いなる意思をこつこつと小さなところから広げ、いまアフガンの人たちに引き継がれている。すごい人がいたんだ。理屈抜きに感動した。
■2月24日: ● 今日で50歳になりました。自分で「ありえねー」って思います(笑)。大台ですよ。誰がなんと言ってもオッサンと呼ばれる世代。まったく自覚がありません。どうすりゃいいんでしょうねぇ…。 ● 最初から11条を適用すべきだと僕は思ってたけど、引退の花道として自動車業界を救済したと残したいブッシュの尻拭いに、オバマさんは400億ドルも余計に使わなきゃならないわけだ。でもいまこそ破産に踏み切るべきだよね。こういう政治判断が日本は出来なかったから10年も低迷したわけで。 ● さげまくってます。日経平均。7,155円。バブル崩壊後の最安値…。昨日の共同声明以降もさげたダウの影響でしょうね。ガイトナーが今週ばしっとキメてくれるとサゲ止まるかな。わからんなー。ホント、先が見えない。
■2月25日: ● 「80日間世界一周」っていう古い映画を流してるんだけど、日本の描き方の無茶ぶりに爆笑した。横浜に着いた。港の裏山が鎌倉の大仏。隣に京都の平安神宮と続き、境内で魚売ってる(わけないのに)。でも世界一周が映画になる時代の表現だから全然許せるし笑える。しかしむっちゃ金かけてるよなぁ。 ● CNNのラリーキングの番組で、今日のオバマ大統領の議会演説を、マケインさんが「すばらしかった」と褒めている風に聞こえたけど聞きまつがいかな…。僕は素晴らしい演説だったと思ったけどな。とりあえず日本語通訳版に戻そぅ…。 ● トルコ航空の飛行機がオランダで着陸に失敗して墜落。機体は三つに折れてる。CNNはこのニュース一色になってもーた。だけど、この一報が入ってからの報道合戦が面白いんだよな。何も情報がない状態でどこまで放送を充実させられるかの闘い。 ● うーん。ブログでデザのための経済学っていうエントリー書いてあげたほうがいいのかなぁ…。なんかみんな、今の経済状態とか、そこでの政治の停滞ってのが、自分のデザという職業にどういう影響を与えてるのかを全然考えてない気がするんだよなー。
■2月26日: ● 全然かんけーないけど、日本のウォシュレットのついたトイレってホントに素晴らしいなぁと実感するわぁ。カンクーンとかナホトカとかジョグジャカルタみたいな僻地は別にして、普通に行く海外の都市でもウォシュレットには出会ったことないんだよな…。アメリカとかで普及しないのかしらん? ● こ、これはすごい!すごすぎる。「Academic Earth」。夢を見ているみたいだ…。なんでこんなことが実現できるんだろう…。これもオバマさんの教育政策の一環なんだろうか。 ● 50歳のプレゼントってことで、ドンペリの2000年ヴィンテージ頂きますた。飲んでの感想は「うまー(恍惚モード)」です。うますぎ。
■2月27日: ● 寒いなーと思ったら、なんか雪というかみぞれっぽいもんが降ってるぞぃ。みなさん風邪引かないようにしてくださいね。温かいものを飲みましょう。 ● やばい!愛知県豊橋で鳥インフルエンザ!ウズラ2羽が高病原性の鳥インフルエンザに感染の疑いが高い、とのこと。パンデミックが怖い。まじ怖い。 ● やべー!「ご確認ください」を、「ご悪人ください」と打ちまつがったままメール出してもたー(涙)。
■2月28日: ● 公正取引委員会がJASRACにケンカを吹っかけた件、やっぱJASRACは「かかってこいや」と予想通りの反応。どう見ても寡占なんだけど、この世界に深入りするのはとてつもなく危険。その危険度はプーチン批判とほぼ同等と思われる。 ● PC戻ってきたー。完全復旧。大量のメールをいまOutlookに落とし中ぅ。しかしDELLのサポートってすごいわな。結局のところ電源問題はマザーボード交換で修理完了ってことになったんだけど、土日関係なしだし、とにかく対処対応がすごく早い。顧客満足度がむっちゃアップしました。 ● そうか!テレビが完全にデジタル化してしまうと、テレビ画面の「砂あらし」という、あの味わい深い画面は二度と見れなくなってしまうわけだ。これはちょっと悲しいなぁ。なんか高速道路が通って田舎の風景が激変するみたいな、過去の記憶を消されるような感じがする…。 ● 今夜は「白州次郎」を見ましょう。まさに今、描かれるべき人だと思います。
Saturday, February 28, 2009
Friday, February 27, 2009
山本一太の言葉
「政治理念」も「哲学」もない。「実力」も「実績」もない。「政策」をまともに発信したこともなければ、「政局」で戦ったこともない。実は語学もまともに出来なければ、国際感覚もない。この手の政治家(いわゆる「空洞族」)を「見栄えや装飾品」だけでおだてたり、チヤホヤしたりする「日本社会の風潮」が本当に恥ずかしい!!(怒)「実力主義」の欧米だったら、考えられない現象だ。
ここまでは誰もが思っていることそのものじゃないだろうか。それを自民党の山本一太が言うんだから「おぉ、なかなか言うじゃんよ」と思うよね。だけど、上記の一節に続いて、次の一節を読んで「どゆこと?」と思った。
やっぱり、自民党は一度下野したほうがいいんじゃないかなあ。そうすれば「偽物(フェイク政治家)」が通用しない政治文化が生まれるもの。いや、冗談でもそんなことを言ってはいけない!(苦笑) 次の総選挙を勝ち抜いてこそ、党の政策を実現出来るのだ。選挙ばかりは、やってみなければ分からない!!
自分は、政治理念も哲学も持っているし、実力も実績もある。さらにまともな政策を発信してるし政局で戦っている。語学もまともに出来るし、国際感覚もある。だから、私、山本一太はフェイク政治家ではないと、逆説的に言った上で、でも結論はやっぱり選挙を勝ち抜くことしかない、と言う感覚。「冗談でも…」と言っているが、国民の感覚では、フェイク政治家の刷新とヴィジョンのない官僚支配の政治からは一刻も早く脱却して欲しいと思っているので、決して「冗談ではない」のだけれど…。彼の、この自民党への帰属意識の感じも良くわからない。有効な政策を立案し法案を可決していくことが国民のためなのだ、という自民党の政治家が良く使うレトリックへの違和感が拭えない。しかし、こんなに経済と政治がビンビン来るのは50歳になったからなんだろうか…。上記の引用、および全文は、山本一太の「気分はいつも直滑降」でどうぞ(追記:いつのまにかブログは閉鎖されてました)。
ここまでは誰もが思っていることそのものじゃないだろうか。それを自民党の山本一太が言うんだから「おぉ、なかなか言うじゃんよ」と思うよね。だけど、上記の一節に続いて、次の一節を読んで「どゆこと?」と思った。
やっぱり、自民党は一度下野したほうがいいんじゃないかなあ。そうすれば「偽物(フェイク政治家)」が通用しない政治文化が生まれるもの。いや、冗談でもそんなことを言ってはいけない!(苦笑) 次の総選挙を勝ち抜いてこそ、党の政策を実現出来るのだ。選挙ばかりは、やってみなければ分からない!!
自分は、政治理念も哲学も持っているし、実力も実績もある。さらにまともな政策を発信してるし政局で戦っている。語学もまともに出来るし、国際感覚もある。だから、私、山本一太はフェイク政治家ではないと、逆説的に言った上で、でも結論はやっぱり選挙を勝ち抜くことしかない、と言う感覚。「冗談でも…」と言っているが、国民の感覚では、フェイク政治家の刷新とヴィジョンのない官僚支配の政治からは一刻も早く脱却して欲しいと思っているので、決して「冗談ではない」のだけれど…。彼の、この自民党への帰属意識の感じも良くわからない。有効な政策を立案し法案を可決していくことが国民のためなのだ、という自民党の政治家が良く使うレトリックへの違和感が拭えない。しかし、こんなに経済と政治がビンビン来るのは50歳になったからなんだろうか…。上記の引用、および全文は、
Tuesday, February 24, 2009
50歳になりました。
ありえねー!です。いやまったく(笑)。この僕が50歳ですよ。50歳。どうしたらいいんでしょうね…と戸惑うばかりです。いやホント。全然、この大台になったという実感がありません。困ったもんですな。40歳になった時は1999年で、まさに日本でWebを使ったコミュニケーションというものが発展していく真っ最中。僕はその真っ只中にいたからか、やらなければならない事が山積みって感じだったからか、「よーし、40歳だぜ。やったるどー」モードだったんですけどね。その時とは随分と違う感じです。
ぶっちゃけ言うと僕は50代になりたくなかったかもしれません。それは、この20年の間、ずっと「もう終わっとるがな」と認めてこなかった(認めたくなかった)世代が、50歳以上の世代だったことが原因だと思います。自分より一回りぐらい上の世代で、上司だったり取引先のワケワカ部長だったり…。そういう人たちはほとんどが団塊世代で、彼らに対する失望感というか、彼らの意思決定の曖昧さや、仕事の進め方に対する敵愾心みなたいなものを、常に自分のエネルギーに変えてきたという感じがあるわけです。極論言うと「50代のオッサン=団塊世代=終わっとる」という漠としたイメージを自分の中でかなり固定してきたんだと思います。
でも50歳になったからと言って、突然何が変わるわけでもありません。もちろん白髪も増えたし、以前に比べたら集中し続けられる時間は短くなったし、徹夜を続けることも出来なくなりました。そういう老いのようなものは実際にあります。だけど、今日も健康だし(ちょっと太りぎみですけど)、やりたいことは加速度的に増えていて、すごく元気!なわけです。この50年を振り返ると、それなりに色々ありました。でも肉体的にも精神的にも安定した状態で今日という日を迎えられているのは幸せな事です。これも支えてくれる沢山のひとがいるからです。ありがとうございます。今後もよろしくお願いします。
最後に、今日、先輩から「ようこそ50代へ」という一通のメールを頂きました。そのメールには「寛容であること」を示唆する内容が記されていました。しかしその「寛容」は、これまで自分が思ってきた「寛容」とは次元の違うものでした。新たな目標が示されたように感じました(寛容の部分を以下に記しておきます)。こうして僕のことを思いやってくださることに深く感謝したいと思います。持つべきは良い先輩ですね。僕も後輩にとって、あなたのような先輩になれるよう、自分を磨いて行きたいと思います。
「寛容」はラテン語で「クレメンティア」と言います。これは古代ローマ帝国の天才ユリウス・カエサルのモットーであり、施政方針でした。塩野七生さんは「寛容になれる裏側には、自らの優位性を疑いもしないという強い自尊心が隠されている。復讐は、恨みという感情から生まれるが、恨みを抱くのは相手を対等に見ているからで、自分より劣った相手に対しては恨みなどという感情は生まれない。故にカエサルは寛容になれるのだ」と言っています。
ぶっちゃけ言うと僕は50代になりたくなかったかもしれません。それは、この20年の間、ずっと「もう終わっとるがな」と認めてこなかった(認めたくなかった)世代が、50歳以上の世代だったことが原因だと思います。自分より一回りぐらい上の世代で、上司だったり取引先のワケワカ部長だったり…。そういう人たちはほとんどが団塊世代で、彼らに対する失望感というか、彼らの意思決定の曖昧さや、仕事の進め方に対する敵愾心みなたいなものを、常に自分のエネルギーに変えてきたという感じがあるわけです。極論言うと「50代のオッサン=団塊世代=終わっとる」という漠としたイメージを自分の中でかなり固定してきたんだと思います。
でも50歳になったからと言って、突然何が変わるわけでもありません。もちろん白髪も増えたし、以前に比べたら集中し続けられる時間は短くなったし、徹夜を続けることも出来なくなりました。そういう老いのようなものは実際にあります。だけど、今日も健康だし(ちょっと太りぎみですけど)、やりたいことは加速度的に増えていて、すごく元気!なわけです。この50年を振り返ると、それなりに色々ありました。でも肉体的にも精神的にも安定した状態で今日という日を迎えられているのは幸せな事です。これも支えてくれる沢山のひとがいるからです。ありがとうございます。今後もよろしくお願いします。
最後に、今日、先輩から「ようこそ50代へ」という一通のメールを頂きました。そのメールには「寛容であること」を示唆する内容が記されていました。しかしその「寛容」は、これまで自分が思ってきた「寛容」とは次元の違うものでした。新たな目標が示されたように感じました(寛容の部分を以下に記しておきます)。こうして僕のことを思いやってくださることに深く感謝したいと思います。持つべきは良い先輩ですね。僕も後輩にとって、あなたのような先輩になれるよう、自分を磨いて行きたいと思います。
「寛容」はラテン語で「クレメンティア」と言います。これは古代ローマ帝国の天才ユリウス・カエサルのモットーであり、施政方針でした。塩野七生さんは「寛容になれる裏側には、自らの優位性を疑いもしないという強い自尊心が隠されている。復讐は、恨みという感情から生まれるが、恨みを抱くのは相手を対等に見ているからで、自分より劣った相手に対しては恨みなどという感情は生まれない。故にカエサルは寛容になれるのだ」と言っています。
Twitter : Feb 2009 : 01
いつのまにか、以前ならブログに残してたちょっとしたメモや日記的なことは全部Twitterに書き残し、それは全部Facebookに一覧になってるので問題ナシ、ってことで済んでしまうようになってしまった。でも、その呟きを一覧で残すと、ちょっと違う見え方がするので面白い。以下は今回の撮影中の呟き。徐々に疲れて行って、だんだん書き込むことも少なくなって、結局、最後に「うどんが食いたい」となってるあたりは自分でも笑える(ロケは毎回こうなります)。ま、そんな感じだけど残しておこう。
■2月5日: ● それではロケに逝ってきます(眠いわー)。● ラウンジで読売新聞を見てびっくり。ブログに悪質な書き込みした18名を摘発、って記事が一面トップ。スポーツ新聞じゃないんだから、もっと重要な、伝えるべきことがあるでしょーに。● エコノミーは行列してたけど飛行機に搭乗したらガラすき…。ビジネスクラスって俺だけ?まじですか…。
■2月6日: ● 某国某場所にて撮影の段取り中ぅ。現地のスタッフが日本語出来ますってメールで書いてたのに、話してみるとこっちが彼の日本語が全然わかんない。なので英語に切り替えて打ち合わせしたんだけど、オマエさん、なまりすぎちゃうの!みたいな感じ。まぁしばらくすれば僕の耳も慣れるかな。● 絶対にお勧めの美しい場所があるので行きましょうとロケバスに乗って1時間半もドライブして見に行ったら、どしゃ降りの雨な上にものすっごい濃霧、ってどゆことよ。見える景色すべてが薄墨で描いた絵みたいで美しくないわけじゃないけどさ、車から降りることすら出来ないじゃんよ、この雨じゃ!● いま部屋でBBC見てたんだけど、シーシェパードが日本の捕鯨に攻撃してるニュースが流れてる。だけど、短絡的に「日本が間違ってる」という方針というか視点での報道。それを見てて、あー、マスメディアって「わかりやすい絵」を軸に報道するという安易さは世界共通みたいだな。● 明日がいい一日でありますように…と、もう祈るしかないところまで、出来ることは全部やった。とにかく撮影なんだから明日は晴れてください。あえて天気予報は確認しません。お願い。頼む。土下座。よろちく。とにかく晴れてくれー!
■2月7日: ● ジンとか飲みたいと思って地元のリカーショップに買いに行った。輸入品の酒がむっちゃ高いがな。どんな関税かけとんねん。「えんだかーえんだかー」と呪文を唱えながら酒買うの初めてかも…。
■2月8日: ● いまごろ時差ぼけ?って感じでなんか、ねむねむ眠い病。ていうか昨日がんばったから疲れたのかな…。今日は移動があるから車で寝よ。● 泥水みたいなのをみんな飲んでる。おいしいから飲んでみと言われて(たぶんそう言っている)、うぇーまじーと思いつつ飲んでみたら、すげー美味かった。なんだこれリンゴジュースじゃんよ、と良く考えたら、そうだよね…と。鉄分が酸化して見た目泥水ってのが本物のリンゴジュースなんだわ。● デジタルで撮影するのは、その場でどんどん確認できるから、アートディレクターとしてはすごい利点なんだけど、その反面、「電気がとれなくなったらどうしよぅ」という心配を抱えてしまう。フィルムカメラの時代には電源の心配なんかなかったからどこでも行けたのにな…。● ロケ地からそう遠くない所に、代々続く泥棒村というところがあるらしい。その村では、ちょっと目を話すと牛が盗まれるぐらいすごいらしく、街での窃盗事件の99%がその村出身者という徹底ぶり。行政指導として長老に談判しに行った議員さんは帰ろうと思ったらクルマがなかったらしい…。
■2月9日: ● この辺鄙な地にも日本人がいて名を「マルさん」と言うのだが地元では嫌われているそうだ。ものすごい成金で「この街で一番!」という意味のナンバープレートをつけた黒のハマーに乗ってぶいぶい無茶やってるらしい。「会わせろ。俺がナシつけたる」って言ったら「やめてください」と言われた…。
■2月10日: ● 今日は雨。撮影するには条件が悪いんだけれども、雨に濡れた状態って、光を多様に拾うからとても美しい。雨雲の上に強い光があって雨なんだけれども明るさが残っているという微妙な光。この光の感じは日本では存在しないなぁ…。
■2月11日: ● 日本を出てから今日で何日目だろう…。さすがに疲れてきた。ユンケルとか飲みたい感じぼ疲労感が身体を支配してる。丸一日ぐっすり寝たいなぁ。
■2月12日: ● ローカルの飛行機に乗って移動。空港からクルマで2時間のドライブ。どんどん道が細くなって、さらにデコボコ道の奥地に移動。その先に忽然と現れた超高級ヴィラ。よくこんな場所にこんなものを作ったな…と思う。あとは天気だけ。雨よ止んでくれ!
■2月13日: ● 一日のうちに何度も流れるこのコーランの調べ。祈りの声なんだとはわかっていても正直慣れることが出来ない。ある時間に数箇所から一斉に流れてくるんだけど、ズレてるし音も悪いし音量でかいしで、東京で街宣車に囲まれてるのとあまり変らない感じ。イスラムに慣れるには時間がかかるなぁ。
■2月14日: ● とにかくいまはうどんが食べたい。カリっとあがった天ぷらうどん。
■2月15日: ● やっと成田空港に帰って来た。今回の撮影はかなりしんどかったわぁ。でも日本のこの冷えた空気の清涼感が心地いい。とりあえず無事に戻れたことに感謝。まずはうどんが食いたい。
■2月16日: ● 海外で撮影するっていうのはもう一発勝負ってところが多いので、集中し続けているわけだけど、帰国してその緊張が取れたからか、昨日は家に戻ってから文字通り一日ずっと眠り続けてた。相当頑張ったんだと自分で思う。
■2月5日: ● それではロケに逝ってきます(眠いわー)。● ラウンジで読売新聞を見てびっくり。ブログに悪質な書き込みした18名を摘発、って記事が一面トップ。スポーツ新聞じゃないんだから、もっと重要な、伝えるべきことがあるでしょーに。● エコノミーは行列してたけど飛行機に搭乗したらガラすき…。ビジネスクラスって俺だけ?まじですか…。
■2月6日: ● 某国某場所にて撮影の段取り中ぅ。現地のスタッフが日本語出来ますってメールで書いてたのに、話してみるとこっちが彼の日本語が全然わかんない。なので英語に切り替えて打ち合わせしたんだけど、オマエさん、なまりすぎちゃうの!みたいな感じ。まぁしばらくすれば僕の耳も慣れるかな。● 絶対にお勧めの美しい場所があるので行きましょうとロケバスに乗って1時間半もドライブして見に行ったら、どしゃ降りの雨な上にものすっごい濃霧、ってどゆことよ。見える景色すべてが薄墨で描いた絵みたいで美しくないわけじゃないけどさ、車から降りることすら出来ないじゃんよ、この雨じゃ!● いま部屋でBBC見てたんだけど、シーシェパードが日本の捕鯨に攻撃してるニュースが流れてる。だけど、短絡的に「日本が間違ってる」という方針というか視点での報道。それを見てて、あー、マスメディアって「わかりやすい絵」を軸に報道するという安易さは世界共通みたいだな。● 明日がいい一日でありますように…と、もう祈るしかないところまで、出来ることは全部やった。とにかく撮影なんだから明日は晴れてください。あえて天気予報は確認しません。お願い。頼む。土下座。よろちく。とにかく晴れてくれー!
■2月7日: ● ジンとか飲みたいと思って地元のリカーショップに買いに行った。輸入品の酒がむっちゃ高いがな。どんな関税かけとんねん。「えんだかーえんだかー」と呪文を唱えながら酒買うの初めてかも…。
■2月8日: ● いまごろ時差ぼけ?って感じでなんか、ねむねむ眠い病。ていうか昨日がんばったから疲れたのかな…。今日は移動があるから車で寝よ。● 泥水みたいなのをみんな飲んでる。おいしいから飲んでみと言われて(たぶんそう言っている)、うぇーまじーと思いつつ飲んでみたら、すげー美味かった。なんだこれリンゴジュースじゃんよ、と良く考えたら、そうだよね…と。鉄分が酸化して見た目泥水ってのが本物のリンゴジュースなんだわ。● デジタルで撮影するのは、その場でどんどん確認できるから、アートディレクターとしてはすごい利点なんだけど、その反面、「電気がとれなくなったらどうしよぅ」という心配を抱えてしまう。フィルムカメラの時代には電源の心配なんかなかったからどこでも行けたのにな…。● ロケ地からそう遠くない所に、代々続く泥棒村というところがあるらしい。その村では、ちょっと目を話すと牛が盗まれるぐらいすごいらしく、街での窃盗事件の99%がその村出身者という徹底ぶり。行政指導として長老に談判しに行った議員さんは帰ろうと思ったらクルマがなかったらしい…。
■2月9日: ● この辺鄙な地にも日本人がいて名を「マルさん」と言うのだが地元では嫌われているそうだ。ものすごい成金で「この街で一番!」という意味のナンバープレートをつけた黒のハマーに乗ってぶいぶい無茶やってるらしい。「会わせろ。俺がナシつけたる」って言ったら「やめてください」と言われた…。
■2月10日: ● 今日は雨。撮影するには条件が悪いんだけれども、雨に濡れた状態って、光を多様に拾うからとても美しい。雨雲の上に強い光があって雨なんだけれども明るさが残っているという微妙な光。この光の感じは日本では存在しないなぁ…。
■2月11日: ● 日本を出てから今日で何日目だろう…。さすがに疲れてきた。ユンケルとか飲みたい感じぼ疲労感が身体を支配してる。丸一日ぐっすり寝たいなぁ。
■2月12日: ● ローカルの飛行機に乗って移動。空港からクルマで2時間のドライブ。どんどん道が細くなって、さらにデコボコ道の奥地に移動。その先に忽然と現れた超高級ヴィラ。よくこんな場所にこんなものを作ったな…と思う。あとは天気だけ。雨よ止んでくれ!
■2月13日: ● 一日のうちに何度も流れるこのコーランの調べ。祈りの声なんだとはわかっていても正直慣れることが出来ない。ある時間に数箇所から一斉に流れてくるんだけど、ズレてるし音も悪いし音量でかいしで、東京で街宣車に囲まれてるのとあまり変らない感じ。イスラムに慣れるには時間がかかるなぁ。
■2月14日: ● とにかくいまはうどんが食べたい。カリっとあがった天ぷらうどん。
■2月15日: ● やっと成田空港に帰って来た。今回の撮影はかなりしんどかったわぁ。でも日本のこの冷えた空気の清涼感が心地いい。とりあえず無事に戻れたことに感謝。まずはうどんが食いたい。
■2月16日: ● 海外で撮影するっていうのはもう一発勝負ってところが多いので、集中し続けているわけだけど、帰国してその緊張が取れたからか、昨日は家に戻ってから文字通り一日ずっと眠り続けてた。相当頑張ったんだと自分で思う。
Monday, February 23, 2009
マーク・ロスコ
Tokyo Art Beatさんの記事で知りました。「瞑想する絵画」と題して、川村記念美術館にてマーク・ロスコ展が始まったようです。これは絶対に行かねばならないぞ。
ニューヨークのシーグラムビル内にある最高級レストラン「フォー・シーズンズ」から依頼され、ロスコが壁画として描いた30枚の連作は、ロスコ自身が現場のスノビッシュなレストランを見て「この場所に自分の絵はふさわしくない」と自ら依頼をキャンセル。その後、川村記念美術館とロンドンのテート・モダン、そしてワシントンDCのナショナル・ギャラリーなどに散逸していた通称「シーグラム壁画」。それが今回、半数にあたる15枚が一同に集められるわけで、文字通り画期的な展示会といえます。というかロスコファンとしては、まさに夢見ていた状況です。
とはいえ「シーグラム壁画」はロスコの作品の中では、どちらかと言うとダークでな印象の作品群にあたります。どんどん色がなくなっていく晩年期の作品よりも、僕はやっぱりワシントンDCのナショナル・ギャラリーのコレクション(ものすごいコレクションです)の暖かな色の一連の作品が好き。とにかくデカいんですよ、ロスコの作品は。前に立つと包み込まれるんです。いくぞ!絶対にいくぞ!
ニューヨークのシーグラムビル内にある最高級レストラン「フォー・シーズンズ」から依頼され、ロスコが壁画として描いた30枚の連作は、ロスコ自身が現場のスノビッシュなレストランを見て「この場所に自分の絵はふさわしくない」と自ら依頼をキャンセル。その後、川村記念美術館とロンドンのテート・モダン、そしてワシントンDCのナショナル・ギャラリーなどに散逸していた通称「シーグラム壁画」。それが今回、半数にあたる15枚が一同に集められるわけで、文字通り画期的な展示会といえます。というかロスコファンとしては、まさに夢見ていた状況です。
とはいえ「シーグラム壁画」はロスコの作品の中では、どちらかと言うとダークでな印象の作品群にあたります。どんどん色がなくなっていく晩年期の作品よりも、僕はやっぱりワシントンDCのナショナル・ギャラリーのコレクション(ものすごいコレクションです)の暖かな色の一連の作品が好き。とにかくデカいんですよ、ロスコの作品は。前に立つと包み込まれるんです。いくぞ!絶対にいくぞ!
Sunday, February 22, 2009
振り込め詐欺にご注意
550億円という巨額の被害が出ているというのにコレでいいだろうか…と、思わざるを得ない警察庁の「振り込め詐欺にご注意!」ページ。Twitterで「あまりにひどくないか」と随分前に呟いたが、まったく更新される様子がない。ページタイトルもない。Wordかパワポか何かで作ったものを書き出して、そのまま置いているから本文もねじれまくり。本文の吹き出しみたいな絵の中の文字も、実は全部画像。さらに「平成21年12月末現在」と未来の数字【謎】。さらに最下部のデカ画像はなんでしょうか…。いやいや逆に「ちょっとまって!」と言いたい気持ちになってしまうですよ。
一方、経済産業省はネット上でのセキュリティ対策の啓蒙のために「セキュリーナ」キャンペーンを華々しく行っている(正直、具体性に欠けててワケわかんないけどね)。新聞社サイトのトップページにもバナーを貼るなど潤沢なる予算(我々が納めた税金です)を惜しげもなく使いまくってるわけですな。警視庁と経済産業省は別の組織だし、予算配分やら税金の使われ方の方針は違うのはわかってるんだけど、大きな意味では両者とも犯罪に対する自己防衛の啓蒙活動なわけですよね。どちらも今の社会には重要な警鐘なのに、この落差には釈然としないものが残るわけです。企業なんかでもコレに似た事態は起こります。いや、90年代はこんなのばっかりでした。企業におけるコミュニケーションで、こういう落差が表面化した場合は、その企業のガバナンス能力に対する不信感が生まれ、信頼性が揺るぐので、ガイドラインや公開プロセスの体制整備などを行うわけですが、行政には縦割りの強烈な縄張り意識があるので、おそらくどうにもならないんでしょう。こういうところにも本来は政治の力が必要なんですよね。
一方、経済産業省はネット上でのセキュリティ対策の啓蒙のために「セキュリーナ」キャンペーンを華々しく行っている(正直、具体性に欠けててワケわかんないけどね)。新聞社サイトのトップページにもバナーを貼るなど潤沢なる予算(我々が納めた税金です)を惜しげもなく使いまくってるわけですな。警視庁と経済産業省は別の組織だし、予算配分やら税金の使われ方の方針は違うのはわかってるんだけど、大きな意味では両者とも犯罪に対する自己防衛の啓蒙活動なわけですよね。どちらも今の社会には重要な警鐘なのに、この落差には釈然としないものが残るわけです。企業なんかでもコレに似た事態は起こります。いや、90年代はこんなのばっかりでした。企業におけるコミュニケーションで、こういう落差が表面化した場合は、その企業のガバナンス能力に対する不信感が生まれ、信頼性が揺るぐので、ガイドラインや公開プロセスの体制整備などを行うわけですが、行政には縦割りの強烈な縄張り意識があるので、おそらくどうにもならないんでしょう。こういうところにも本来は政治の力が必要なんですよね。
Saturday, February 21, 2009
Walton Ford
今日の午後から、六本木の巨匠と彼のスタジオで諸々撮影した。撮影中は撮ることに集中しているので全然気づいていなかったのだが、撮影が終わって「こんど中華とか食べにいこか」とか「ワイキキのハレクラニって何年も値段高いままなんだけど、いざサーフライダーに変えるかって言うと、やっぱハレクラニがいいなって感じでさー」とか巨匠が話しているのに相槌を打ちながら、ふと見ると、机の上にシックな茶色の生地張りハードケースのヨコに「Walton Ford」と金箔エンボスされた、あの巨大な作品集が乗っているじゃないか!ハワイの話とか全然無視して「うぉ!ウォルトン・フォードじゃん!」って叫んでしまった。Taschenが出すSumoシリーズにウォルトンの作品集があるとは知らなかったから「見ていい?」とねだって開けさせてもらった。いやー素晴らしい。感動した。ウォルトンの絵は、どの絵も擬人化された物語やブラックなセンスがすごく好きなんだけど、この巨大な本の中にはほぼ原寸で刷られた図版が沢山あって目を奪われた。随分前にウォルトンが気になってのエントリーを残したことがあるが、それ以降、ちゃんと見ていなかったので今日は大きな収穫だった。ちなみにこの本はアマゾンで買える。買えるけどむっちゃ高い。円高なのでアメリカのアマゾンのほうが安いかな。六本木の巨匠のスタジオの3階には、こうした稀少本が数多く詰まった素晴らしいライブラリがある。その多くは写真家の作品集だが、絵画や民俗学的な本も多い。僕も自分の本棚には相当投資してきたけど巨匠のライブラリの足元にも及ばないな。
Wednesday, February 18, 2009
村上春樹の言葉(全文)
いたちょ【謎】が全文をアップしてくださったのでコピペして整形。自分で翻訳してて、なんか繋がんないなぁと思ってたのがスッキリしました。前振りの割りに短いスピーチだなと思ってましたが、この全文を読むと村上春樹さんが何を伝えたかったのかがより鮮明になります。
「常に卵の側に」
今日、私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つきとしてやってきました。もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。
どうしてこんな事がまかり通っているかって?答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。
しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。もちろんこれには理由があります。ガザを怒りで満たした激しい戦いです。国連によると1,000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。
受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。
でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。
そういう訳で私はここにいます。ここに近寄らないよりは来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断は、もちろん小説家の一番大切な任務のひとつです。
しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」。
ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?
この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆破犯と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステムです。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。
私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。
味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。
今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。
ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実態ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです。
私が言いたいのは以上です。エルサレム賞をいただき、感謝しています。世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。
「常に卵の側に」
今日、私はエルサレムに小説家、つまりプロの嘘つきとしてやってきました。もちろん、小説家だけが嘘をつく訳ではありません。すでに周知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人は時と場合によって独自の嘘を口にします。車のセールスマンや肉屋、建築屋さんもそうですね。小説家とその他の人たちとの違いですけど、小説家は嘘をついても不道徳だと咎められることはありません。実際、大きい嘘ほど良いものとされます。巧みな嘘は皆さんや評論家たちに賞賛されるというわけです。
どうしてこんな事がまかり通っているかって?答えを述べさせていただきます。すなわちこういうことです。創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。
しかし今日は、嘘をつくつもりはありません。なるだけ正直でいようと思います。1年のうちに嘘をつかないのは数日しかありませんが、今日がその1日なのです。そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。もちろんこれには理由があります。ガザを怒りで満たした激しい戦いです。国連によると1,000人以上の方たちが封鎖されたガザで命を落としました。その多くは非武装の市民であり子供でありお年寄りであります。
受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。
でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。
そういう訳で私はここにいます。ここに近寄らないよりは来る事にしました。自分で見ないよりは見る事にしました。何も言わないよりは何か話す事にしました。政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断は、もちろん小説家の一番大切な任務のひとつです。
しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。にもかかわらず、非常に個人的なメッセージをお届けするのをお許し下さい。これは私が創作にかかる時にいつも胸に留めている事です。メモ書きして壁に貼るようなことはしたことがありません。どちらかといえば、それは私の心の壁にくっきりと刻み込まれているのです。
「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」。
ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?
この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆破犯と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステムです。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。
私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。
昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。
味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。
今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。
ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実態ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです。
私が言いたいのは以上です。エルサレム賞をいただき、感謝しています。世界の多くの地域で私の本が読まれた事にも感謝しています。今日みなさんにお話できる機会を頂いて、うれしく思います。
村上春樹の言葉
エルサレム賞を受賞した村上春樹さんの受賞スピーチが英文のまま掲載されていたので、勉強のために翻訳してみた。「ユニーク」という言葉の対訳に迷った。また「システム」という単語も適切な単語が思い浮かばずカタカナにした。それはさておき、日本語にしてから読み直してみて、短いスピーチだけれども、さすがに文筆家だけあって深い内容を持っているなぁと思う。さらに日本人っていうのは、こういうシビアな場では沈黙を貫くほうを選ぶケースが多いと思われる。だが彼は、人間として誰もが持っているはずの良心(スピーチでは神性とも言っている)に向けて、こうして堂々と言葉を発している。これは尊敬するべき姿勢だと思う。さらにその言葉を発する前に「私たちは我々自身の内にある真実がどこにあるのかを明瞭にしなければなりません」と、自らの「作家というものは」という信念を語っている。こうした真摯な姿勢にも学ぶことが多い。
So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.
私はイスラエルに来ました。小説家として、つまり嘘の紡ぎ手として、ここに来ました。
Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.
小説家だけでなく嘘をつく人はいます - 政治家も(大統領閣下、すみません)、外交官も嘘をつきます。しかし小説家と他の方々との間には区別できるものがあります。小説家は嘘をついたことで告訴されることはなく、むしろ賞賛されるのです。さらにその嘘が大きいほど、大きな賞賛を得るのです。
The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.
私たち小説家と他の方々の嘘と異なる点は、私たちの嘘は真実を明らかにする助けとなるものです。真実を完全な形として掴むのは困難なので、私たちはそれを作り話の領域に翻訳するのです。しかしまず最初に、私たちは我々自身の内にある真実がどこにあるのかを明瞭にしなければなりません。
Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.
今日、私は真実を話します。私が嘘を語ることに従事しないのは年に数日しかありません。今日はそのうちの一日です。
When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?
私がこの賞を受け入れるように頼まれたとき、ガザでの戦闘を理由にこの地に来ることに警告されました。私は「イスラエルを訪問するのは適切なことだろうか? 一方の側に味方することになるだろうか?」と自問しました。
I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
私は熟慮しました。そして来ることを決めました。ほとんどの小説家のように、私も人に言われた正反対のことをするのが好きなのです。それは私の小説家としての気質です。小説家は自分自身の目で見ていないもの、自分自身の手で触れてもいないものは何も信じることができません。私は見ることを選びました。沈黙するよりも、むしろここで話すことを選びました。
So here is what I have come to say.
ここに、私をこの地に来させた主張があります。
If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.
もしそこに堅く高い壁があり、それによって卵が壊れていたら、いかに壁が正しく、卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つのです。
Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.
なぜか?なぜなら、私たちはみな卵だからです。壊れやすい殻の中に掛替えのない魂を宿した卵なのです。私たちは個々に高い壁に立ち向かっています。高い壁とは、普通なら一個人として行わないと思うことを、行わせようとする我々への支配力のシステムです。
I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.
私が小説を書く目的はひとつだけです。それは、個人の内にある掛替えのない神性を描き出すことです。無比であることを満足させるためです。システムが我々を紛糾させるのを防ぐためです。だから私は人生と愛の物語を書くのです。人々を笑わせ、泣かせるのです。
We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.
私たちはみな人類であり、掛替えのない存在であり、壊れやすい卵です。壁に対して私たちには望みが全くありません。壁は、あまりにも高く、あまりにも暗く、あまりにも冷たいのです。壁と戦うために、私たちは温めあい、強さのために心を結合させなければなりません。システムに主導権を握らせ、我々がどんな人間かを規定させてはならない。我々がシステムを規定するのです。
I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.
私は、私の本を読んでくださったイスラエルの方々に感謝します。私たちが何か意義深いものを分かち合えたることを願っています。あなた方がいることが、私がここに来た最大の理由なのです。
So I have come to Jerusalem. I have a come as a novelist, that is - a spinner of lies.
私はイスラエルに来ました。小説家として、つまり嘘の紡ぎ手として、ここに来ました。
Novelists aren't the only ones who tell lies - politicians do (sorry, Mr. President) - and diplomats, too. But something distinguishes the novelists from the others. We aren't prosecuted for our lies: we are praised. And the bigger the lie, the more praise we get.
小説家だけでなく嘘をつく人はいます - 政治家も(大統領閣下、すみません)、外交官も嘘をつきます。しかし小説家と他の方々との間には区別できるものがあります。小説家は嘘をついたことで告訴されることはなく、むしろ賞賛されるのです。さらにその嘘が大きいほど、大きな賞賛を得るのです。
The difference between our lies and their lies is that our lies help bring out the truth. It's hard to grasp the truth in its entirety - so we transfer it to the fictional realm. But first, we have to clarify where the truth lies within ourselves.
私たち小説家と他の方々の嘘と異なる点は、私たちの嘘は真実を明らかにする助けとなるものです。真実を完全な形として掴むのは困難なので、私たちはそれを作り話の領域に翻訳するのです。しかしまず最初に、私たちは我々自身の内にある真実がどこにあるのかを明瞭にしなければなりません。
Today, I will tell the truth. There are only a few days a year when I do not engage in telling lies. Today is one of them.
今日、私は真実を話します。私が嘘を語ることに従事しないのは年に数日しかありません。今日はそのうちの一日です。
When I was asked to accept this award, I was warned from coming here because of the fighting in Gaza. I asked myself: Is visiting Israel the proper thing to do? Will I be supporting one side?
私がこの賞を受け入れるように頼まれたとき、ガザでの戦闘を理由にこの地に来ることに警告されました。私は「イスラエルを訪問するのは適切なことだろうか? 一方の側に味方することになるだろうか?」と自問しました。
I gave it some thought. And I decided to come. Like most novelists, I like to do exactly the opposite of what I'm told. It's in my nature as a novelist. Novelists can't trust anything they haven't seen with their own eyes or touched with their own hands. So I chose to see. I chose to speak here rather than say nothing.
私は熟慮しました。そして来ることを決めました。ほとんどの小説家のように、私も人に言われた正反対のことをするのが好きなのです。それは私の小説家としての気質です。小説家は自分自身の目で見ていないもの、自分自身の手で触れてもいないものは何も信じることができません。私は見ることを選びました。沈黙するよりも、むしろここで話すことを選びました。
So here is what I have come to say.
ここに、私をこの地に来させた主張があります。
If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.
もしそこに堅く高い壁があり、それによって卵が壊れていたら、いかに壁が正しく、卵が間違っていたとしても、私は卵の側に立つのです。
Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.
なぜか?なぜなら、私たちはみな卵だからです。壊れやすい殻の中に掛替えのない魂を宿した卵なのです。私たちは個々に高い壁に立ち向かっています。高い壁とは、普通なら一個人として行わないと思うことを、行わせようとする我々への支配力のシステムです。
I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.
私が小説を書く目的はひとつだけです。それは、個人の内にある掛替えのない神性を描き出すことです。無比であることを満足させるためです。システムが我々を紛糾させるのを防ぐためです。だから私は人生と愛の物語を書くのです。人々を笑わせ、泣かせるのです。
We are all human beings, individuals, fragile eggs. We have no hope against the wall: it's too high, too dark, too cold. To fight the wall, we must join our souls together for warmth, strength. We must not let the system control us - create who we are. It is we who created the system.
私たちはみな人類であり、掛替えのない存在であり、壊れやすい卵です。壁に対して私たちには望みが全くありません。壁は、あまりにも高く、あまりにも暗く、あまりにも冷たいのです。壁と戦うために、私たちは温めあい、強さのために心を結合させなければなりません。システムに主導権を握らせ、我々がどんな人間かを規定させてはならない。我々がシステムを規定するのです。
I am grateful to you, Israelis, for reading my books. I hope we are sharing something meaningful. You are the biggest reason why I am here.
私は、私の本を読んでくださったイスラエルの方々に感謝します。私たちが何か意義深いものを分かち合えたることを願っています。あなた方がいることが、私がここに来た最大の理由なのです。
Tuesday, February 17, 2009
そこに行く大切さ
先々週から海外に撮影で出てました。若い頃から海外に行って撮影するというのは数え切れないほど経験して来ましたが、そのほとんどはモード系のファッション撮影だったので、基本的に撮影拠点は都市かリゾート地でした。今回も拠点としては都市だったのですが、少し違う写真を撮りたいと思って、旅行者はまず足を踏み入れないところに入って行きました。
クライアントとの間にNDAがあるので詳しくは書けませんが(いずれはカタチになるのでカタチになった頃にまた書きます)、普通は誰も行かない場所に意図的に入って行って、そこで交渉して撮影するというスタイルを試みました。色々行きましたが、某所のジャングルにも足を踏み入れました。そこはもう本当にジャングルでした(まんまですけど、そうとしか言いようがありません)。一歩足を踏み外すと下を流れる川に転落するような厳しい場所を登って行きました。実際、そこに足を踏み入れないと見えてこないものが沢山あって、正直びびりまくりました。直径80cmぐらいの巨木としか言いようない太さのバナナの木って想像できるでしょうか。その幹は、もう完全に現代美術の作品を越えた美しさを持ってました。また昆虫なんかも、もう凄い毒々しいキッチュな色をしていて見とれてしまいます。もちろん怖くて触れませんけどね。とにかく目に入る色がものすごく綺麗なんです。
薄暗いジャングルを歩いていて何気なく見上げると40cmぐらいの巨大な蜘蛛があちこちにいたり(写真の蜘蛛は村の近くまで降りてきたところで撮ったもので、これはまだ小さい方です。だけど25cmぐらいあります)、スイカみたいな巨大な果実が樹木の幹からにょきっと垂れ下がっていたり(これは毒があるので動物も食べないそうです)、森のざわめきも、虫の立てる音や、猿の鳴き声、さらに甲高い鳥の鳴き声などが交じり合って、もうファンタジーックな世界。
足元もすごいことになっていて、小さな昆虫がびっしりと生息しています。足元はぱっと見ると落ち葉だけなんですが、それを蹴飛ばすと多様な幼虫や無数の蟻がうじゃうじゃいます。ジャングルを歩くときは葉っぱを上から踏みしめるように歩くのが基本のようで、それを知らない僕は何度も葉っぱを蹴飛ばしてしまって、そうするとぶわーっと靴を登って来るんです。その上、がぶっと噛む。もう手ではたいても落としきれない数の蟻が登って来るので参りました。さらにそれが後で痒いんです。今も痒さが残ってます。まぁいい経験しました。
今回の旅を通じて思ったのは、やっぱり「そこに行く」ということの大切さです。「そこに行く」ことで感じられるコトの多さ。ネットに大量の情報が載るようになり、さもそこに行ったことがあるような気になりがちですが、そんなものがいかに薄っぺらいかをも実感した旅でした。逆に、真に「そこに行った」という感覚を紡ぐには、表現として何が足りていないかが良くわかった旅でもありました。記憶を呼び覚ます言葉の選び方。感覚を喚起するために今まで以上に必要な映像と写真の記録。そしてそれらの紡ぎ方。サラウンドな音の効果などなど、すでに技術として出来ることが沢山あるのに、まだ誰もやっていないことが沢山あるな…と。それを実現すること自体が大変なわけですが、数多くのクリエイティブな啓示も得ました。そして自分の得た体験を、詳細に分析して経験に変え、それを表現に落としていく。それは僕のこれまでのスタイルですが、これは自分にとっては正しい善循環なんだなという認識を新たにしました。
クライアントとの間にNDAがあるので詳しくは書けませんが(いずれはカタチになるのでカタチになった頃にまた書きます)、普通は誰も行かない場所に意図的に入って行って、そこで交渉して撮影するというスタイルを試みました。色々行きましたが、某所のジャングルにも足を踏み入れました。そこはもう本当にジャングルでした(まんまですけど、そうとしか言いようがありません)。一歩足を踏み外すと下を流れる川に転落するような厳しい場所を登って行きました。実際、そこに足を踏み入れないと見えてこないものが沢山あって、正直びびりまくりました。直径80cmぐらいの巨木としか言いようない太さのバナナの木って想像できるでしょうか。その幹は、もう完全に現代美術の作品を越えた美しさを持ってました。また昆虫なんかも、もう凄い毒々しいキッチュな色をしていて見とれてしまいます。もちろん怖くて触れませんけどね。とにかく目に入る色がものすごく綺麗なんです。
薄暗いジャングルを歩いていて何気なく見上げると40cmぐらいの巨大な蜘蛛があちこちにいたり(写真の蜘蛛は村の近くまで降りてきたところで撮ったもので、これはまだ小さい方です。だけど25cmぐらいあります)、スイカみたいな巨大な果実が樹木の幹からにょきっと垂れ下がっていたり(これは毒があるので動物も食べないそうです)、森のざわめきも、虫の立てる音や、猿の鳴き声、さらに甲高い鳥の鳴き声などが交じり合って、もうファンタジーックな世界。
足元もすごいことになっていて、小さな昆虫がびっしりと生息しています。足元はぱっと見ると落ち葉だけなんですが、それを蹴飛ばすと多様な幼虫や無数の蟻がうじゃうじゃいます。ジャングルを歩くときは葉っぱを上から踏みしめるように歩くのが基本のようで、それを知らない僕は何度も葉っぱを蹴飛ばしてしまって、そうするとぶわーっと靴を登って来るんです。その上、がぶっと噛む。もう手ではたいても落としきれない数の蟻が登って来るので参りました。さらにそれが後で痒いんです。今も痒さが残ってます。まぁいい経験しました。
今回の旅を通じて思ったのは、やっぱり「そこに行く」ということの大切さです。「そこに行く」ことで感じられるコトの多さ。ネットに大量の情報が載るようになり、さもそこに行ったことがあるような気になりがちですが、そんなものがいかに薄っぺらいかをも実感した旅でした。逆に、真に「そこに行った」という感覚を紡ぐには、表現として何が足りていないかが良くわかった旅でもありました。記憶を呼び覚ます言葉の選び方。感覚を喚起するために今まで以上に必要な映像と写真の記録。そしてそれらの紡ぎ方。サラウンドな音の効果などなど、すでに技術として出来ることが沢山あるのに、まだ誰もやっていないことが沢山あるな…と。それを実現すること自体が大変なわけですが、数多くのクリエイティブな啓示も得ました。そして自分の得た体験を、詳細に分析して経験に変え、それを表現に落としていく。それは僕のこれまでのスタイルですが、これは自分にとっては正しい善循環なんだなという認識を新たにしました。
Wednesday, February 04, 2009
企業サイト改変不要論
「最近、どこの企業のサイトを見ても、だいたい同じような感じになってて、それで何かが変わるかって言っても別に何が変わったってこともなく、あまり効果もないみたいだし、もう企業サイトをピカピカにするという時代は終わった感じだね…」。
昨夜行われた文化庁メディア芸術祭の授賞式。その式典が終わった後の懇親会パーティで、ある人にこんなことを言われました。ちなみに昨夜、これを僕に言った相手は、Web業界ではそれなりに実績のある人で、僕としては「この人わかってないなー」って思ったんだけど、その人は広告の方の人だし、「いやそれは違うでしょ」とその場で言っても時間の無駄だなと思ったのと、もっと別に話したい人もいたので、にっこりしながら「そうですねー」と言っておいた。
まぁ、似たようなトップページがあり、脈絡のない打ち出しがFlashで作られてぴょこぴょこ動いてたり、クリックすると本体も似たようなグリッドで似たようなデザイン…という感じで、そういう風に思われても仕方ないリニューアルが数多く行われているのは僕も認識している。だから、そういう側面からは僕も「終わった感じ」と思いますよ。ただ、根本的に大きな勘違いがあるようなので、ちょっと書いておこうと思う。
企業サイトを手掛けると言っても色々ある。中でもよく勘違いされるのは、「リニューアル」と「リストラクチャリング」の混同だ。ナビゲーションを整備したりユーザーインターフェイスや見た目を変えて、回遊性やコンバージョン率を向上させる「リニューアル」と、個々の企業の事業モデルが持つ顧客との接点のシナリオを洗い出し、個別のコミュニケーションの最適化と同時に、事業モデルそのものまでを組み立て直してサイト構造を導き出す「リストラクチャリング」は、まったく別次元の仕事なのだが、どうもそのあたりが理解されていないようだ(僕がbAに在籍していた頃はセミナーなどで、そういうレクチャーは行ってはいたんだけどね)。
ただ、普通の人というか表側から見ている限りは、そんなことは知らないというか、それらが何が違うのかがわからず、「リニューアル」だと思っていることが大半なんだと思います。いや、普通の人だけじゃなく「企業サイトをリニューアルしました」と実績に載せている人も、そこのところは、あまりわかっていないんじゃないかな…。知っていれば「リストラクチャリングしました」と実績に記載するだろうしね。
もっと言えばリストラクチャリングは、文字通り事業の再構築を伴ったコミュニケーションの最適化なので、デザイン表現を主体としている個人や会社には到底出来るものでもないと思います。それは僕自身が経験したことでもあって、個人事務所でデザイン業務を中心にしていた中で「これじゃダメだ。そういう仕事をする体制を作らなきゃダメだな」と思ってbAを設立し、手掛けた一社一社に総力戦で取り組んで、それでも納得の行く結果が出せるかどうか…というほど難しい仕事なのですよ。
企業サイトをリストラクチャリングするというのが、どういうことなのか。それを書き始めたら一冊の本が出来てしまうほど長々と書かなきゃ説明は無理なんだけれど、「リニューアル」との大きな違いは、サイトが主体の再構築じゃないってことかな。「リストラクチャリング」はビジネスの最適化が主目的であって、そこにコミュニケーションの最適化のためのITインフラがあって、そのシナリオがサイト全体の構造と立ち振る舞いを決定づけて…と、デザインとかユーザビリティとかは最後のフェーズの一要素でしかないわけです(もちろん重要ですけど)。それを戦略と呼ぶのか、IAと呼ぶのかは別にして、とにかく手掛ける企業の持つビジネススタイルと顧客マインドは全部異なる上に、企業文化も全然違うので、決してあるパターンを導入すればそれで結果が出るというものではないのです。吊るしの既製服じゃなく、体型にピッタリ合ったオートクチュールの作業と言う感じでしょうか。
このあたりを勘違いして、「今までにない高機能なCRMシステムがあります。導入しませんか」っていう、システムパッケージ系を主軸に置いたリニューアル(カスタマイズと運用でがっぽり。さらにそれらの要件定義は相手次第という深い沼の提供モデル)は、言い換えれば、顧客の利便性と言う免罪符を盾に、その導入企業のビジネスフローをシステムに合わせて根本的に変えてくださいというオーダーに繋がるわけです。そこに業務コンサルやインストーラーが存在するなら話は別ですが、ただ「システムが変わりましたのでよろしく」では、十中八九は頓挫するか導入しても結果が出ないのが普通です。だって誰だっていつも通りに仕事進めたいじゃないですか。それをシステムに合わせて変えてくださいって言うこと自体、無茶なんですよね。技術はいくらでもあるんです。リストラクチャリングでは、それをどう人が動かせるように埋め込むか、が課題なわけです。
まぁ、こういうことを書き始めると、ホントにキリが無くなってしまうのでもうやめますが、少なくとも「見た目をどうにかしましょう」っていうリニューアルは最低限いろいろやって頂くとして、本質的に企業サイトを改変して行くっていうのは、顧客のコトを考えたとき、企業としてのコミュニケーションが今のままでエクセレントなのかどうかを常に鑑みる体質を持った担当の方々(そういう風に育てるのも仕事)と「これでいいのかなぁ」と一緒になって考え続けるところに「どこまでも付き合っていけるかどうか」しかありません。
最初に掲げた言葉を吐いた広告の方の人は、どこまでも付き合っていくということを勘違いしていて、どこまでも新しい花火を生み出しますよ、というところで企業へのソリューションを提供されているのだと思います。それはそれでいいのですが、なんとなく薄っぺらいなぁとは思いました。
昨夜行われた文化庁メディア芸術祭の授賞式。その式典が終わった後の懇親会パーティで、ある人にこんなことを言われました。ちなみに昨夜、これを僕に言った相手は、Web業界ではそれなりに実績のある人で、僕としては「この人わかってないなー」って思ったんだけど、その人は広告の方の人だし、「いやそれは違うでしょ」とその場で言っても時間の無駄だなと思ったのと、もっと別に話したい人もいたので、にっこりしながら「そうですねー」と言っておいた。
まぁ、似たようなトップページがあり、脈絡のない打ち出しがFlashで作られてぴょこぴょこ動いてたり、クリックすると本体も似たようなグリッドで似たようなデザイン…という感じで、そういう風に思われても仕方ないリニューアルが数多く行われているのは僕も認識している。だから、そういう側面からは僕も「終わった感じ」と思いますよ。ただ、根本的に大きな勘違いがあるようなので、ちょっと書いておこうと思う。
企業サイトを手掛けると言っても色々ある。中でもよく勘違いされるのは、「リニューアル」と「リストラクチャリング」の混同だ。ナビゲーションを整備したりユーザーインターフェイスや見た目を変えて、回遊性やコンバージョン率を向上させる「リニューアル」と、個々の企業の事業モデルが持つ顧客との接点のシナリオを洗い出し、個別のコミュニケーションの最適化と同時に、事業モデルそのものまでを組み立て直してサイト構造を導き出す「リストラクチャリング」は、まったく別次元の仕事なのだが、どうもそのあたりが理解されていないようだ(僕がbAに在籍していた頃はセミナーなどで、そういうレクチャーは行ってはいたんだけどね)。
ただ、普通の人というか表側から見ている限りは、そんなことは知らないというか、それらが何が違うのかがわからず、「リニューアル」だと思っていることが大半なんだと思います。いや、普通の人だけじゃなく「企業サイトをリニューアルしました」と実績に載せている人も、そこのところは、あまりわかっていないんじゃないかな…。知っていれば「リストラクチャリングしました」と実績に記載するだろうしね。
もっと言えばリストラクチャリングは、文字通り事業の再構築を伴ったコミュニケーションの最適化なので、デザイン表現を主体としている個人や会社には到底出来るものでもないと思います。それは僕自身が経験したことでもあって、個人事務所でデザイン業務を中心にしていた中で「これじゃダメだ。そういう仕事をする体制を作らなきゃダメだな」と思ってbAを設立し、手掛けた一社一社に総力戦で取り組んで、それでも納得の行く結果が出せるかどうか…というほど難しい仕事なのですよ。
企業サイトをリストラクチャリングするというのが、どういうことなのか。それを書き始めたら一冊の本が出来てしまうほど長々と書かなきゃ説明は無理なんだけれど、「リニューアル」との大きな違いは、サイトが主体の再構築じゃないってことかな。「リストラクチャリング」はビジネスの最適化が主目的であって、そこにコミュニケーションの最適化のためのITインフラがあって、そのシナリオがサイト全体の構造と立ち振る舞いを決定づけて…と、デザインとかユーザビリティとかは最後のフェーズの一要素でしかないわけです(もちろん重要ですけど)。それを戦略と呼ぶのか、IAと呼ぶのかは別にして、とにかく手掛ける企業の持つビジネススタイルと顧客マインドは全部異なる上に、企業文化も全然違うので、決してあるパターンを導入すればそれで結果が出るというものではないのです。吊るしの既製服じゃなく、体型にピッタリ合ったオートクチュールの作業と言う感じでしょうか。
このあたりを勘違いして、「今までにない高機能なCRMシステムがあります。導入しませんか」っていう、システムパッケージ系を主軸に置いたリニューアル(カスタマイズと運用でがっぽり。さらにそれらの要件定義は相手次第という深い沼の提供モデル)は、言い換えれば、顧客の利便性と言う免罪符を盾に、その導入企業のビジネスフローをシステムに合わせて根本的に変えてくださいというオーダーに繋がるわけです。そこに業務コンサルやインストーラーが存在するなら話は別ですが、ただ「システムが変わりましたのでよろしく」では、十中八九は頓挫するか導入しても結果が出ないのが普通です。だって誰だっていつも通りに仕事進めたいじゃないですか。それをシステムに合わせて変えてくださいって言うこと自体、無茶なんですよね。技術はいくらでもあるんです。リストラクチャリングでは、それをどう人が動かせるように埋め込むか、が課題なわけです。
まぁ、こういうことを書き始めると、ホントにキリが無くなってしまうのでもうやめますが、少なくとも「見た目をどうにかしましょう」っていうリニューアルは最低限いろいろやって頂くとして、本質的に企業サイトを改変して行くっていうのは、顧客のコトを考えたとき、企業としてのコミュニケーションが今のままでエクセレントなのかどうかを常に鑑みる体質を持った担当の方々(そういう風に育てるのも仕事)と「これでいいのかなぁ」と一緒になって考え続けるところに「どこまでも付き合っていけるかどうか」しかありません。
最初に掲げた言葉を吐いた広告の方の人は、どこまでも付き合っていくということを勘違いしていて、どこまでも新しい花火を生み出しますよ、というところで企業へのソリューションを提供されているのだと思います。それはそれでいいのですが、なんとなく薄っぺらいなぁとは思いました。
Tuesday, February 03, 2009
Thomas Prior
今日、「etoday」にフィーチャーされて、おぉ、トーマスじゃんって思って見直したんだけど、いやー、あいかわらずキレのある写真を撮ってますね。彼の写真は、ただカッコいいっていうだけじゃなくて、何か漂うドラマがあって、僕は大好き。さらになにげなくスナップ撮ってる風にしてるけど、ものすごく計算されたフレーミングには恐れ入る。これは才能と言わざるを得ない。その才能を味わうにはアートディレクターとして何万枚ものポジフィルムをセレクトした経験が必要かもしれないけれど、最もわかりやすく説明すれば、彼の写真にはトリミングする隙がどこにもないってことかな。彼が切り取ったフレームには必要なすべてが入っている。もう触りようがない強さ。これって、あたりまえのコトのようだけど、トーマスのように緊張感のあるフレーミングが作れる人って実は少ないのですよ。こういう力のある人とディレクションで丁々発止しながらの時間って、ものすごく疲れるんだけど掛け替えのない楽しさもあるんだよね。トーマスの写真はオフィシャルサイトとブログで見てください。
Monday, February 02, 2009
vimeo:Processing
最近、アタマが疲れてくると、ちょっとvimeoで、ここに貼ったflight404の作品群とか、もっとプリミティブなアンソニーのやつ(アンソニーのArbitrary Structureとかホントべたで和む)とか、processingを使って色々やってる作品を見て和んでいます(ちゃんと見るのはProcessingのギャラリーでどうぞ)。僕も興味があったので2004年頃にちょっと勉強して色々模索したりしましたが、やっぱりbA在籍時は忙しくて没頭できませんでした。ただ、当時はFlash上ではレンダリングの限界値があるなか、processingは表現として本当ならこうだよね…という側面で、進むべき方向を模索する意味では重要なツールでした。それと、なぜ和むのかって考えたら、それはたぶん作品が持っている純粋さなのかもしれません。なにかインスパイアされたものを表現しようとする純粋さ。そこに癒されてるということは「だって仕事に落とさなきゃ」と考えてしまう自分の不純さを省みる時間なのかも…。
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