Thursday, January 01, 2009

昭和史発掘

今日、元旦の日記に書いたので、この大作について少し書き記しておこう。これまで松本清張の著作は、かなりの数を読んできたが、中でも数年前に「神々の乱心」を読んだ(これも上巻がねっちり)あと、書かれた当時としてはタブーの域に切り込んだこの長編のプロットは、それ相当の事実証拠を手元に置いてでなければ書けないし、その意味では、前々から読破したいと思っていた松本清張の「昭和史発掘」も読むべきなんだろうなとは思っていた。一方で藤沢周平の完全読破っていうのをこの2年ぐらい取り組んでいて、それはそれで残り10冊ぐらいというところまで来ているのだが、そのせいでAmazonの「おすすめ商品」に藤沢周平以外のリコメンドが出るようになり、そこに松本清張の著作もまた出るようになり、つい「昭和史発掘」の第1巻をクリック。そのままどどどーって感じで全9巻を入手して読み進めている。

先に書いたような動機はあったが実際は、歴史の教科書には記載されないような知られざる日本の近代史を学べるのもいいかなっていうぐらいの軽い気持ちだった。だが読み始めるとものすごく濃密で重たい。読むスピードはまるで牛歩のように鈍い。「理由」の宮部みゆきなどにも受け継がれた松本清張のねっちり調【謎】は、これまで読んできた彼の著作で慣れてきたつもりだったが、この「昭和史発掘」は小説ではなくドキュメンタリーなので、一行一節が事実とその検証の積み重ね。斜め読みを一切許さない密度に圧倒される。辣腕の記者が徹底取材したノートとでも言うのだろうか。このような検察調書的なネタを、ずんずん読み進ませるところに松本清張の偉大さがあるのだろう。

さらに第1巻から個々に取り上げているトピックは異なるのに、史実だから当然なのだが話がずっと繋がっていく。いま、ようやく7巻まで読み進んだ。でも、読み進むたびに元に戻って読み直すということが続く。だけど、それによって、情景がどんどん立体的になるのだ。これは松本清張という天才が、この長編のプロットを完璧に俯瞰した上で、必要な部分に必要なことを載せる、という、とんでもないディレクション能力を発揮している証拠だろう。

だが、この史実で描かれているテーマはどれも重いものであり、さらにそうして立体的に、且つその筆致によってイマジネイティブにされると、自分の祖父が子供だった頃…という程度の、まだ手の届く時間しか経っていないのに、この昭和初期の社会に漂う多様な思想と、その実行力に驚かされる。まるで他国で起こった歴史のように思えるほど官の力は強く、それによる筆舌に尽くし難い弾圧。中でも「小林喜多治の死」は戦慄を余儀なくする。この項は本当に一行一節から思想家の絶叫が立ち上がってきて、読みながら目を背けるような感覚に何度も陥る。また、明治維新以降、諸外国から持ち込まれる多様な思想に翻弄されながら、ずっと拠りどころとしてきた「天皇」という存在を、どのように位置づければよいかに悩みに悩んだ昭和に生きた人々の苦悩も立ち上がってくる。

学校で習う「歴史」は、あくまでも年号ベースの事実の羅列で、その事件が起こった思想的背景の繋がりは深くは教えてもらえない。だが本当に知っておくべきことは脈々と流れる歴史の背景であり、どういう政治と、どういう思想が、どう行き詰ったり、どう打破しようとしたか、そしてその結果、何に繋がって行ったか、という延々と紡がれてきた人々の生きざまなのだ。その大切さをこの本は教えてくれる。それを知ることによって自分たちの時代で何が正しくて何がズレているのかを見出すことが出来る。この先も四苦八苦しながら僕はこの大作を最後まで読むだろう。そしてきっとまた読み返すと思う。それは歴史は反芻すべきことだと作者が主張していると思うからだ。

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