Monday, January 26, 2009

寄付発想の欠落

景気対策の一環としての「定額給付金」。それそのものが景気を上向けるのかどうかの議論の前に、埋蔵金はもっと別に使ったほうが景気が良くなるはずだといった「やってみなきゃわからない」ものを、給付する前から野党はこぞって「だめだ」と言って、結局、「やっても効果が無い」空気を作って、おまえら何がやりたいの?みたいな話とか、いわゆるお金持ちの人が給付金を受け取るのは「さもしい」とか、麻生首相が「辞退する」と言ったとか言わないとか、本当にくだらないことで国会での質疑を繰り返していたわけですが、そのニュースに触れてるあいだに、ぽわーんとアタマに思っていたことを、社会学者の加藤秀俊氏が、スパっと整理してくれた。そうなんです!そうですよ!とスッキリ。まぁ寄付を求めている側にもコンプライアンス面で問題を持つのが多いという実態もある。だけど、とにかく日本の金持ちって寄付をするという発想がないのは事実。寄付して名誉を得るという文化がないのも確かだけれど、社会貢献って、もっと気軽に出来るコトなんだけどな。

【正論】社会学者・加藤秀俊 「給付」を「寄付」にできないか

おもしろいことに、アメリカでは高額所得者は「辞退」すべきだ、といったようなバカげた議論はなかった。閣僚や要職にあるひとが、オレはもらわないよ、などとはおっしゃらなかった。なぜなら、余裕のあるひとは受け取った300ドルにしかるべき上積みをしてそのまま慈善団体などに寄付したからである。「寄付」というのはじぶんの手もとにあるいささかのおカネを自発的に提供して社会的な再配分をする、ということである。そうすることによっておカネはちゃんと良識にしたがってうごくのである。そういう伝統がアメリカにはある。だからだれもおどろかなかった。

(中略)
その点で「定額給付金」は、まず名前がよくない。「給付」などというからおカミがくださるおカネという権威主義的なイメージになってしまう。その結果「もらう」「もらわない」といった乞食のような下品なことばが国会でもやりとりされて、だれもそれを不思議におもわない。あの応酬をきいていて、わたしは情けなくなった。ひとりでもいい、もしも「寄付」ということばを口にしてくれていたら、どれだけ世の中が明るくなったことであろうか。
(中略)
「要らない」とか「辞退する」などとおっしゃらずに、しかるべき医療福祉、学術文化振興、その他もろもろの財団や団体に「寄付」なさることこそ為政者、指導者の姿勢というべきなのではなかったのか。それだけ単純なことが、ゴタゴタになってしまった。日本版の「刺激金」の説明と広報はまことに稚拙だったのである。すくなくとも、それによってうまれるはずのわずかな景気対策の効果は半減したとみるべきではないか、とわたしはおもっている。政治献金の「寄付」を「うける」だけでなく、タマには「寄付する」心をみせていただきたかった。

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