トザキさんの「パブロフの犬で満足」を読んで、思うことがあった。あちらのコメントにも書いたが、僕が若い頃に写真家のNOB(福田匡伸)さんに言われたことだ。それは、「写真はさぁ、続けられるかどうか、それ自体が才能で、目的というものを意識する時点で違うんだよなぁ」ということだった。上田義彦さんの師匠だったりMoMAにコレクションされるような凄い写真家なのに、なぜか僕を可愛がってくれたNOBさんの言葉は、若い僕の迷いのようなものを見事に断ち切ってくれた。
もうひとつ、直木賞作家の浅田次郎の言葉も思い出した。『私は幼い頃から“小説家になりたい”と思っていたのではなく、“小説家になる”と思い込んでいた。だから新人賞に応募して落選を続けていた時も、“くやしい”と思ったことは一度もなく、“おかしい”と考えていた。規定の運命であるはずなのに、それが実現されない事が不思議でならなかった。もし私の人生が、正当な志に支えられた挑戦であったのなら、二十数年に及ぶ雌伏には到底耐えられなかったであろう。“くやしい”という感情は、挑戦と敗北の対価であり、人間は同一の目的についてそれを何度も繰り返すほど強靭ではあるまい。しかし、“おかしい、ふしぎだ”と思っているのなら、いつまでも同じ事を繰り返せる。スポーツやゲームならばいざ知らず、人生に挑戦の機会などそうそうないのだから、その結果たるものは“成功か失敗か”というよりむしろ、“成功か、然らずんば死か”というべきであろう。』
さて、改めて自分のこれまでを振り返ってみると、「悔しい」と思った時に、正直に自分に何が足りなかったかを自覚するだけの能力はあった気がする。しかし僕のそれは勉強と考察を重ねるしかない程度のものだが、浅田次郎が言うような正当な志のような何かを大上段に掲げなくても、続けていこうと思えるものがあるだけ、僕は幸せものなのだろう。
Sunday, September 21, 2003
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