Saturday, January 31, 2009

Coke: Escalator & Stairs

あっち【謎】のブログにも乗せてたんだけど、こっちにも移植。これはストックホルムで展開された階段とエスカレーターを使ってのコカコーラとマクドナルドの共同キャンペーンの模様。普通のコーク好きの人は階段を使いましょう。コークライトはカロリー低いのでエスカレーターへどうぞ。っていう行動示唆が含まれたクリエイティブ。

普段から見慣れた通路が、ある朝突然にこういう状態になってて、出勤途中とかにこの状態に出会ったら、みんな一瞬考えつつも、まぁみんな普段どおりにエスカレータに乗るんだろうけど、たぶんその一瞬考えたコトってのは終日どこかアタマの中に記憶されてて、翌日から「おれってやっぱ階段かも…」とか思ったりすると思うんだよね。

つまり、こういう行動示唆型が面白いと思うのは、コークやマクドナルドを普段から口にしてる人はもとより、「私はそんなジャンクフードは食べないし今日のランチもディーン&デルカのサンドにデカフェよ」みたいな人に対しても、一瞬考えさせるメッセージと言うのが含まれているってところ。こういう心理面に届くコミュニケーションって必ず蓄積されていくから、単にキャンペーンというところを越えてブランドというところにも有効なクリエイティブで、このアイデアは素晴らしいものがあると思いますですよ(パチパチ)。

しかし、なんとも壮観ですな。この階段の横の壁にはデジタルサイネージが大量に掲げられているわけで、これらの画面も、このキャンペーンに連動して全部を同時に動かすと、かなりすごい状況が生まれるのが容易に想像できて、とっても羨ましい。現時点で、日本のデジタルサイネージというのは、ほとんどすべてが「単体」で存在しているという状況で、そのデジタルサイネージの設置理由は「画面」で色々訴求するという用途で置かれたものなわけだから、「それを使って」の発想でしかコンテンツの作りようがないのが実情。これは、言い換えればポスターのB0サイズという「画面」の中でどうクリエイティブしましょうかという従来の話と本質的には何も変わっていない状況なわけです。

僕は、これからのデジタルサイネージは単体ももちろんアリだけど「それを使って」だけじゃなく、「"それら"を使って」という複数の発想でのメディア価値が必須だと思っていて、それらを両方コントロールすることを前提にした上で今後のデジタルサイネージは発想され投資されるべきだとロケーションオーナーには話して行きたいし、デバイスメーカーとマネジメントシステム、そしてクリエイティブにも、そこでの可能性を訴えて行きたいと思ってます。

Agency: DDB Stockholm | Creative Director: Andreas Dahlqvist | Art Directors: Simon Higby, Viktor Arve, Felix Soderlind, Tove Eriksen

Friday, January 30, 2009

space

「猿人」のエントリーに、バカが多すぎなんじゃないのかってのを書いてる中に、ジョシュアって書いたけど、そのジョシュア・デイビスの最近のスタディが、この「space」。ベジエのハンドリングがテーマなんだけど、ジョシュアらしさが丸出しで、とっても楽しめる。キャプチャしたのは、まだプリミティブな段階でのスタディのところなんだけど、とにかくジョシュアのセンスを感じてしまって、なんかニマニマしてしまう。イントロを含めての、この28枚のスタックカードを、矢印キーで順番に見ていくうちに、「わーったしわぁ、キーチガーイでぇーす(差別用語ですみません)」っていうジョシュアの声が聞こえてくるような錯覚を覚えるし、ジョシュアがこのプレゼンテーションを、どういう感じに行ったかのも、これを見るだけで十分想像できる。

あるひとつの何かに興味を持つところから始まって、その興味の対象を、どういう方向にスタディしながら自分なりの展開を模索していくか。もちろんそこは個々の自由なのだが、スタディを重ねて行けば行くほど、次々にイメージが湧いてきて、さらなるスタディを深めていく、というところに、やっぱり「才能」と呼ばれるものが際立ってくるんだと思う。ずいぶん前になるけれど、ジョシュアは僕に「僕は子供の頃に絵を描いたけれど、画家のようにはうまく描けなかった。あきらめずに一生懸命やってみたよ。それでわかったのは、見えているものを見えているように描くってことですら、才能がなければ難しいということだったんだ。だけど描きたい!という欲求は、成長してもずっと消えなかった。そんな僕がFlashに出会って、勇吾の作ったものを見て、「これだ」と思ったんだ。僕の絵筆はプログラムなんだ!と思ったんだよね」って呟いたことがある。そのとき僕は打たれた感じがした。「そっかー」とか応えながら、自分の努力はジョシュアのそれと較べてどうなんだろう…という自問自答が自分を支配したのを昨日のことのように思い出す。「猿人」のエントリーで、僕が「バカ」と位置づけた人たちにわかって欲しいのは、こういうことなんだよね。ま、とりあえずジョシュアは元気そうだし、こんどNYCに行くし、「おみゃー元気にしとるかよー」って、突撃しよーっと。

Thursday, January 29, 2009

猿人

猿人」が公開された直後に、これを制作した勅使河原くんと少しだけ話した。彼はこう言っている。

既に知られている歴史をもとに、どこまで魅力的に出来るのか、悶々と苦しみ続けて出来たものです。しかし実は、組み込むべき中心となるインタラクションが、一部のブラウザのバグによって最終的に取り払わざるをえなくなり、今は映像に近いですね。flashのくせにブラウザのバグ?という感じですが、それだけ無茶なことをやろうとしていました。そのうち、代わりに何かしらのインタラクションを入れようと思っています。今試作中です。本当はそれから、皆さんにみて欲しかったのですが、広まってしまいました(苦笑)。とはいえ、以前も、これから組み込もうとしてるものも、インタラクティブにして話を進ませるようなものではないです。何の為にインタラクションを入れるのか。僕の場合はただただ、例えば商品の場合は商品を効果的にみせる為。猿人の今回の場合ならば、没入感を出す為、ユーザーとの距離を縮める為、でしかないんですよね。信蔵さんの記憶から猿人が薄れてきた時にでも、またご覧になってみてください」。

僕は、この突破したいという強い希求心と、インタラクションに対する自問自答こそが、勅使河原くんのオリジナリティを支えているのだと思う。こうした自問自問を行わず、Flashサイトには「かっこいい」インタラクションがあるのが当然で、「すげーのできます」とか言いながら、いかにピュンピュン動かせるか、みたいなことばかりを深堀りし、さらに、そういったことがインタラクティブデザインのあるべき道、みたいに思い込んでるバカが最近多すぎやしませんか…。いまだにそういうオナニーっぽいものを作って、「どうよ」とか、「いいじゃん」とか。なんか僕はウンザリするんだよね。そういうところでのヒーローみたいなのは勇吾やジョシュアの時代にとっくに終わってるし、「すげーのできます」と彼らが言えば言うほど、そういうのを作れば作るほど、Flashを使う意味のところでの誤解が広がり、ひいてはそう言っている自分自身のプレゼンスが下がっている、というところに気づいていないバカが多すぎる。勅使河原くんの持つ意識の一部分でも汲み取って、「もっと重要なことがあるのかもしれない。そこを自分は流されたままなのかもしれない。自分も、もっと自問自答するべきかもしれない」って、この「猿人」を見て、ひとりでもそう考える人が増えていって欲しいと僕は願ってます。

んで、勅使河原くん、ごめんね。飲みに行くって約束もそれっきりになってて、中々時間が作れなくてすみません。今のところで入ってる仕事のスケジュールの感じだけでも、来月の20日ぐらいまではかなりピチピチなのですわぁ。落ち着いたら電話しますねー。

Wednesday, January 28, 2009

Firefoxのレンダリングの謎

いきものみっけ」のプロジェクトで、調査結果報告のグラフィックを作成し、それを報告サイトに掲載したところ、Photoshopはもとより、ローカル環境で画像を見ることができる、あらゆる画像プレビューアプリケーションでも問題なく表示されていて、さらにウェブブラウザとして、IEでも、Operaでも、Chromeでも、とにかくすべてでまったく問題なく表示されているJPEGファイルが、なぜかFirefoxの上だけで、薄い色の部分がちゃんとレンダリングされずに横筋のボーダーが入った状態で表示されてしまうという事象が起こって、今日の午後、すこしバタバタした。

左のサムネイルをクリックしてもらったら、問題を起こしたJPEGファイルを見てもらえますので、これをFirefoxとIEの両方で開けて見較べてみてください。ええぇ?っていう状態が確認してもらえると思います。でもこれは僕のところだけで起こっている問題というか、僕の環境が悪くて引き起こしている問題かもしれず(環境はWindows XP SP3です)、どこがー?って感じで問題が確認できない可能性もあるので、いま起こっている状態をキャプチャして右下に掲示しておきます。んで、なぜそうなったのかの本当のところは今も謎のままなのですが、Photoshopからの書き出し時点で、何かFirefox的にレンダできない何かの圧縮コーディング記述があったとしか考えられません。問題が起こっているJPEGファイルは、CS3のPhotoshopから「最高品質・圧縮100%」で書き出しで起こっています。念のため同じ元PSDファイルをCS2のPhotoshopで開け、同じ「最高品質・圧縮100%」設定で書き出したところ、問題は回避されました(わかんねー)。

その両方のJPEGファイルのどこが異なったコーディングになっているのかを確認しようと思って、両方のファイルをエディタでリ・コンパイルしてみたところ、Firefoxでのレンダリングでも問題のないCS2で書き出したファイルは、284,173バイトでコードは1,776行で書かれていました。一方、問題を起こしたファイルの方は、284,408バイトありながら、コードは1,734行で書かれていて、問題ありの方がコード的には短縮(圧縮)されているのがわかりました。明らかにコード量は問題ありの方が短いのに、そっちのほうがファイルのバイト数が多いってのもわかんないんですが、そういう事がわかったからと言って何も解決したわけでもないし、こうしたほうがイイというTIPSがあるわけでもありません(すみません)。IEや他のブラウザでは起こらないような、この微妙な差が何なのかもわかりません。だけど、他のブラウザと違って、Firefoxのレンダリングエンジンだけは、何か違うコトが起こる可能性があるということだけはわかったので、エントリーとしてここに残しておきます。今後、ウェブで使用する場合は、書き出したJPEGファイルをFirefoxで問題がないかを確認するのを必須としていきたいと思います。何か情報があったら教えてください。よろしくお願いします。

J.Crew

オバマ大統領夫人のミシェルさんのおかげで、懐かしのブランド「J.Crew」がまた一躍脚光を浴びてる。実数は公表していないようだけど、CNNの電話インタビューで広報担当者が「なんだか、とんでもないことになってるのよー」って絶叫してた。

本家のアメリカのサイトは、あいかわらずの世界観で安心な感じ。80年代にJ.Crewが登場したときは、そのビジュアルコミュニケーションの斬新さに世界が驚いた。当のJ.Crewは全然広告とか打ってなかったのに、世界中のファッション誌のエディトリアルの雰囲気が変わったもんね。その頃の僕は、ちょうどデザイナーからアートディレクターに昇格する寸前あたりだったので、ものすごくセンシティブに世界のクリエイティブを受け止めてたからか、そのインパクトを良く覚えている。

ばっきばきのモデルではなく、ちょっと洒落た感覚を持ったナチュラルピープルのキャスティング。ラルフローレンが好んで作る仲良し一家風の情景をチープシック(懐かしい言葉だ)なライフスタイルで演出。そして最も影響を与えたのは素材感溢れる柔らかな商品写真の撮り方だった。当時は、こういった価格帯のカタログは、ピッチピチにアイロンがかけられ、ぺたんと置かれたようなシワのない型番写真みたいな商品写真があたりまえだった。そこにJ.Crewは、やわらかく捩じれたような置き方や、洗濯物をたたんで置いたような無造作な商品写真を打ち出してきて、その「カタログ写真として作られていない感」が新鮮だった。単品商品をカラーコーディネートで見せたり(これは今も健在のようだ)、ライティングもHMIやデイライト系の光で、商品の柔らかさや光沢感を存分に伝えてて、その手法の表現力の豊かさに驚いたのも懐かしい。

ところでこのJ.Crew、かなり早い段階でレナウンが国内ライセンスを取得してお店を作ったりしてたので、そっちを見てみたんだけど、日本のサイトはどーなんこれ(絶対にイラっとするので、クリックしない方がいいと思う)。いまどき、トップページでウィンドウサイズを小さくするかね。中身もなんもないし、せっかくJ.Crewという名前がメディアに出まくっている機会なのに、最悪の状態だな。レナウンが進めてきたアパレルビジネスって随分前にもう駄目だと言われてたのに上場して、ダーバンなんかも合併したり、英国アクアスキュータムの株を手放したりしながら取り繕ったりてきたけれどずっと赤字だし、株価もずっとサゲまくり。レナウンの企業サイトも、まぁなんと言うか、香ばしいというか、これだからね。

Tuesday, January 27, 2009

27 Jan 2009

ここんとこ忙しくてあまりエントリーできなかったな。とりあえずメモという感じ。クリエイティブの仕事で忙しくなってるので、そこから離れた時間(まぁメシ食ってるか寝る前の時間ですな)に、やっぱり気になる経済や国際情勢の資料を読んだりしてるんだけど、読めば読むほど自分がいかに無知だったかを思い知らされる。それ(いかに無知だったか)に関しての今週のまとめは別に書いた。読み込めば読み込むほど欧米のダブルスタンダードの怖さが立ち上がってくる。だけど、それによって一方的な情報を鵜呑みにしないように気をつける、という、ある意味であったりまえのコトを改めて鍛えさせてくれるので、この「読み込む」ってのは続けたいと思ってる。

Twitter上でのスパムって言うのかな。なんか商品とかお店の情報だけ乗せている人がフォローしてくるケースが多いな。まぁこっちからフォローしないから別に実害はないんだけど、検索上位になるための新手の手法なのかと思うとちょとウザい。あと、Twitterで「このユーザーはつぶやきを非公開にしています。」って、なんで非公開に設定するんだろ。そもそも公開出来ないことはネット上に残さないのが原則だと思うし、Twitterを秘密の置き場所にするのは明らかに危険だし何を隠したいのかよくわかんない。身内で情報共有といえば、前までだったらToしたりCcしたり出来るメールだった。それをライブにする感じでメッセンジャーやGoogle Talkが出てきて、ある意味で「こそっと話す」っていう環境は普通にある。そういうのとTwitterって何が違うんだろう…、というのにspfの鎌ちゃんが応えてくれてちょっとわかった。Twitterで非公開にしている状態で興味本位でフォローされても、その相手をフォローしなけりゃ「いやーご遠慮ください」ということでほっとけばいい…と。会ったことがあるとか、話したことがあるとか、顔を知ってるとか、そんな共有してもいい人かどうかを受動的に選べるから「その人たちの間なら日常を呟やいても気にしないでいい」という一線の設定の自由度が高いわけだ。なるほどねー。

お金持ちは給付金を受け取るべきかどうかの議論が馬鹿馬鹿しい理由を社会学者の加藤秀俊氏がバッサリ。その通り。むやみに消費しないでも寄付すりゃ社会に還元できるのよ。ものすっごくスッキリしました

今週のありえねー!:「公務員65人居座り 雇用促進住宅 規制から3年」ってか、ありえないでしょ。そもそも15年も月3万円で暮らしてきて、「何度も退去の指導をしてきたが、「子供が小学校を卒業するまで待ってほしい」「近くに適当な場所が見つからない」など、ほとんどが個人的な理由で居住を続けている」って、どういう認識なんだ。「おれたちの払った税金が使われてるから3万円という家賃なんでしょーが」って、居座ってる人たちの耳元に拡声器最大ボリュームで言いたい。

さらに今週のありえねー!:「中国製ギョーザ、省政府が横流し斡旋 新たな中毒も」って、これもありえない。食べた人には何の責任もないし、中国当局が「中国国内での毒物混入はない」と断定した結果が招いた痛ましい事件だな。しかしこれで中国で毒物が混入したんだとわかったわけで、日本側の関係者はほっとしただろうな。

それから、「魚拓」ってサービスを使ってみました。新聞のニュースページって、気がつくとリンク先が消えてて、元のリソースとかが「表示できません」になることって多い。そういうのを丸ごと残してるのはWayback Macineだったりするけど、すごい遅かったりしてリンク先に使うにはちょっと違う感じがする。この「魚拓」はページ単位で残してくれるし、すでに誰かが残してたらそれを使えばいいって感じで気軽な感じです。Appleの増井さんがこれに近いサービスを使ってた記憶があるんですが忘れました。他にも同じようなサービスがあったら教えてください。よろしくお願いします。

バカ国家:日本

オバマ大統領が就任してから、その演説や、その後の施策を見ていて、改めて景気が悪くなった2007年ぐらいからの情報を色々読んでいる。そうすると、日本の外務省がいかに無能なのか、さらに日本の政界がいかに無見識なのかを嫌と言うほど思い知らされる結果となった。

日本は、とにかく諸外国(もちろん西欧先進国)からは「お金を出させるに都合のいい国」でしかないようだ。福田さんの環境サミットも、麻生さんになってからのG20も、諸外国は「金は出さないと言い出さないように機嫌を損ねない程度に相手しとけば十分」という態度ではないか。日本の首相や、その都度の日本の提言などが、国内では「一定の評価を得た」などと新聞やニュースで流れているけれど、海外での扱われ方を見ると、愕然とするほど「相手にされていない」ことがわかる。

「新しい金融システムに向けての会議」に向けてと題して「ドルの覇権体制の永続を強く望むとともにIMFに1,000億ドルの資金を拠出する」と放言したり…。ていうかコレ放言でしょ。そもそも国民はそんな考えがあるなんて聞いてないし、「あんたらには理解できそうにないから説明しない」と言って、そんな巨額な約束を諸外国相手に勝手にしてきてるわけだからね。さらに野党も突っ込まない。1,000億ドルったら9兆円ですよ。半年前の為替なら13兆円。ものすごい巨費ですよ。それを国民に知らさずに出しますと。給付金に2兆円を身勝手に使うなって話と、この9兆円って別の財源なんですかね。日銀券じゃなくて政府券で出せるわきゃないし、結局これって日本の総予算から出るんでしょ?それを日本に戻ってきて「貢献を高く評価された」と言われていた麻生さんのG20での演説。だけど、これって実は世界の新聞で取り上げたところがほとんどなく、取り上げられてもアジア欄にしか掲載されていないのが現実(AFPですから)。9兆円出すって言う話を「まぁ、日本はそれぐらいは出しとけや」ぐらいにしか受け止めてもらえないってどーなん。それは一部のニュースがそうしたという事ではなくて、諸外国にとっては「どーせ金しか出せないんだし」という認識があたりまえになっている、ということの証だろう。

これって情けなくないか?おれたち、どれだけのアメリカのドル債権を持ってあげてるわけ?このところの中国の対米通貨対策での大量ドル購入で一位の座は譲ったけど、中国に次いで、日本は5,732億ドルものドルを保有して、基準通貨としてのドルを支えてるんですよ。だからと言うわけでもなく、俺たちってお金だけじゃなくて、もっと世界に貢献できると思ってるのに、なんでこんな扱いなわけ?政府はなにやってんの?という気持ちが湧いてくるのを僕は抑えられない。

外務省の無能さと日本政界の無見識さを感じる出来事は、他にもいっぱいある。北朝鮮問題に関しても、アメリカの「テロ指定国家解除」という身勝手な動きに対して、普通に考えれば、なんでアメリカは北朝鮮だけ「攻撃しない」のか…、そこがアメリカの考えを読み取るポイントだと思うけど、日本は「拉致問題」という視点からしか動けなかった。それだって中国にイニチアシヴを譲って米中関係を改善しつつ、よしんば中国管轄下での元に38度線の緊張が解ければ「アジアに駐留させる米軍をアフガンに回せたらうれしいかもー」っていうアメリカの画策の背景も見えるはず。シリアに核技術を供与したって話も、アメリカの捏造ってことは今や明らかなわけで、アメリカの報道を鵜呑みにしている感(していないと言ってもそういう動きしか出来ていないのは事実)の強い日本政府は、世界から見たら「アメリカに従属するバカ国家」でしかないと思う。

経済でも、「円キャリー」という手法でさんざん利用され尽くしてきたのが日本であって、そういう、世界から見た「日本」っていう国の現実を、僕たちはちゃんと知っておかなければならないんじゃないだろうか。いま、政治を仕切っている世代も、官僚のトップも、日銀のトップも、普通の会社なら定年の世代。彼らの時代観のままに世界で立ち振る舞われるままでは、日本はずっと「バカ国家」から抜け出せないのかもしれない。

Monday, January 26, 2009

Yan Pei-Ming

待望のヤン・ペイミンの作品集「Life Souvenir」が発売されます。今月中に先行予約するとお得みたいです。早く届かないかなー。

In this exhibition catalogue, Chinese painter Yan Pei-Ming investigates the nebulous concepts of human virtue and memory--especially in relation to age, power and society. Life Souvenir presents images of infants and soldiers, continuing Yan's careerlong interest in history, incorruptibility and, above all else, human emotion.

寄付発想の欠落

景気対策の一環としての「定額給付金」。それそのものが景気を上向けるのかどうかの議論の前に、埋蔵金はもっと別に使ったほうが景気が良くなるはずだといった「やってみなきゃわからない」ものを、給付する前から野党はこぞって「だめだ」と言って、結局、「やっても効果が無い」空気を作って、おまえら何がやりたいの?みたいな話とか、いわゆるお金持ちの人が給付金を受け取るのは「さもしい」とか、麻生首相が「辞退する」と言ったとか言わないとか、本当にくだらないことで国会での質疑を繰り返していたわけですが、そのニュースに触れてるあいだに、ぽわーんとアタマに思っていたことを、社会学者の加藤秀俊氏が、スパっと整理してくれた。そうなんです!そうですよ!とスッキリ。まぁ寄付を求めている側にもコンプライアンス面で問題を持つのが多いという実態もある。だけど、とにかく日本の金持ちって寄付をするという発想がないのは事実。寄付して名誉を得るという文化がないのも確かだけれど、社会貢献って、もっと気軽に出来るコトなんだけどな。

【正論】社会学者・加藤秀俊 「給付」を「寄付」にできないか

おもしろいことに、アメリカでは高額所得者は「辞退」すべきだ、といったようなバカげた議論はなかった。閣僚や要職にあるひとが、オレはもらわないよ、などとはおっしゃらなかった。なぜなら、余裕のあるひとは受け取った300ドルにしかるべき上積みをしてそのまま慈善団体などに寄付したからである。「寄付」というのはじぶんの手もとにあるいささかのおカネを自発的に提供して社会的な再配分をする、ということである。そうすることによっておカネはちゃんと良識にしたがってうごくのである。そういう伝統がアメリカにはある。だからだれもおどろかなかった。

(中略)
その点で「定額給付金」は、まず名前がよくない。「給付」などというからおカミがくださるおカネという権威主義的なイメージになってしまう。その結果「もらう」「もらわない」といった乞食のような下品なことばが国会でもやりとりされて、だれもそれを不思議におもわない。あの応酬をきいていて、わたしは情けなくなった。ひとりでもいい、もしも「寄付」ということばを口にしてくれていたら、どれだけ世の中が明るくなったことであろうか。
(中略)
「要らない」とか「辞退する」などとおっしゃらずに、しかるべき医療福祉、学術文化振興、その他もろもろの財団や団体に「寄付」なさることこそ為政者、指導者の姿勢というべきなのではなかったのか。それだけ単純なことが、ゴタゴタになってしまった。日本版の「刺激金」の説明と広報はまことに稚拙だったのである。すくなくとも、それによってうまれるはずのわずかな景気対策の効果は半減したとみるべきではないか、とわたしはおもっている。政治献金の「寄付」を「うける」だけでなく、タマには「寄付する」心をみせていただきたかった。

Friday, January 23, 2009

横尾忠則の言葉

自分が描いた絵が、人に影響を与えるのは、いいことだと思う。人に影響が出てきたな、ということが見えてきたら、そしたら自分は別の場所に行かなきゃいけない。自分はずっと同じことをやっていてはだめで、次に行かなきゃならないんです。自分を変えるタイミングが、影響が出てきたことによって、わかるから。つまり、影響が出るおかげで、ぼくが変わることができるんです」。

しょえー!横尾忠則先生のお言葉はさすがに重たい。出典は2008年12月5日に行われた「ほぼ日刊イトイ新聞-横尾忠則さんの街角的公開制作」。鳶職姿で、じゃーっと描いていて「休憩!」となって、突然見ている人に「質問とかありますか」となって、「自分が描いた絵が人に影響を与えることについて」という質問(いい質問だわ)を受けた横尾先生が、さらりと答えられたお言葉。自分では十分にわかっていることだが、先生も、こう考えながら変わり続けてこられたんだなぁと、ひとりで感動。

Thursday, January 22, 2009

方向転換

オバマ大統領就任を境にホワイトハウスのサイトが新しくなったとのことなので見てみた。デザイン的にもコーディング的にも普通に良く出来ているなと思いつつ、アートやクリエイティブ活動に向けてもその価値向上に向けていくと書かれていて「へー」って思ったり。その中でびっくりしたのは「アジェンダ」の中の「Additional Issues」の中で、ブッシュ大統領を「二枚舌野郎」扱いしてる一節。上から四つめのパラグラフにある「カトリーナ」の対応についてのところ。もうボロクソ。なんかすげーなぁ…。

President Obama will keep the broken promises made by President Bush to rebuild New Orleans and the Gulf Coast. He and Vice President Biden will take steps to ensure that the federal government will never again allow such catastrophic failures in emergency planning and response to occur.

オバマ大統領は、ブッシュ大統領の約束が破られているニューオリンズとメキシコ湾の再建を立て直します。大統領とバイデン副大統領は、連邦政府の緊急対策の立案や対応において今回のような最悪の怠慢が二度と起こらないことを保証します。

ロバート・ケネディの言葉

オバマさんのスピーチを勉強のために翻訳していて(まだ進んでません)、ロバート・ケネディのスピーチを思い出した。そのスピーチは、彼がアンバサダーホテルで暗殺される2ヶ月前、1968年4月のスピーチなので、もう40年も前のメッセージなのだが、いつまでも心に留めておきたい偉大な演説だと思う。このスピーチは、映画「BOBBY」のラストに流れる。去年の11月頃、オバマさんが候補者を獲得し、マケイン議員と大統領選を戦っていたいた時期に、アメリカの思想の背景を確かめたくてこの映画を見直し、見終わったときに思わず巻き戻して書き留めたのがこのスピーチだった(映画を見たときの感想はshinzlog-Cinemasの方に記録している)。アメリカ映画が、その時々の政府の影響を受けて自国のプロパガンダに走りがちなのはよくわかっている。だが、このスピーチは脚本ではなくボビー自身が直接語っているものなので、そういうところを離れて心に響いたのかもしれない。アメリカが再出発しよう、というこの時に、このボビーの精神が生かされていくことを願って、ちょっと長いがスピーチをここに再度記録しておく。

今日は政治を語ることはしません。この機会に、ぜひ伝えたいことを簡単にお話します。アメリカでの心ない暴力について。

暴力は国の名誉を汚し、人々の命を奪います。それは人種に関係ありません。暴力の犠牲者は黒人、白人、富人、貧人、若者、老人、有名、無名。何よりもまず、彼らは人間だということ。誰かに愛され必要とされた人間なのです。誰であろうと、どこで暮らそうと、どんな職業であろうと、犠牲者となりえます。無分別な残虐行為に苦しむのです。それなのに今もなお、暴力は私たちのこの国で続いています。

なぜでしょう?暴力は何を成し遂げたでしょう?何を創り出したでしょう?アメリカ人の命が、別のアメリカ人により、不必要に奪われる。それが法の名の下であろうと、法に背くことであろうと、一人、または集団によって、冷酷に計画して、または激情にかられて、暴力的攻撃によって、または応酬によって、一人の人間が苦労して自分や子供のために織り上げた生活や人生を、暴力で引き裂く。

暴力は、すなわち国家の品位を貶めることです。それなのに私たちは暴力の増徴を容認する。暴力は、私たちの人間性や、文明社会を無視しているのに、私たちは、力を誇る者や、力を行使する者を、安易に賛美する。自分の人生を築くためなら、他者の夢さえ打ち砕く者を、私たちは、あまりにも安易に許してしまう。

でも、これだけは確かです。暴力は暴力を生み、抑圧は報復を生みます。社会全体を、浄化することによってしか、私たちの心から病巣を取り除けません。あなたが誰かに、人を憎み、恐れろと教えたり、その肌の色や、信仰や、考え方や、行動によって劣っていると教えたり、あなたと異なる者が、あなたの自由を侵害し、仕事を奪い、家族を脅かすと教えれば、あなたも、また他者に対して、同胞ではなく、敵として映るのです。協調ではなく、力によって征服し、従属させ、支配すべき相手として、やがて私たちは、同胞を、よそ者として見るようになる。同じ街にいながら共同体を分かち合わぬ者、同じ場所に暮らしながら同じ目標を持たぬ者として。

共通するものは恐れと、お互いから遠ざかりたいという願望。考え方の違いを、武力で解決しようという衝動だけ。

地上での私たちの人生は、あまりに短く、成すべき仕事は、あまりに多いのです。これ以上、暴力を私たちの国ではびこらせないために。暴力は、政策や決議では追放できません。私たちが一瞬でも、思い出すことが大切なのです。共に暮らす人々は、皆、同胞であることを。彼らも私たちと同じように、短い人生を生き、与えられた命を、私たちと同じように最後まで生き抜きたいと願っているのです。目的を持ち、幸せに、満ち足りた達成感のある人生を送ろうと。

共通の運命生きる絆は必ずや、共通の目的を持つ絆は必ずや、私たちに何かを教えてくれるはずです。必ずや私たちは学ぶでしょう。まわりの人々を仲間として見るようになるはずです。そして努力し始めるでしょう。お互いへの敵意をなくし、お互いの心の中で、再び同胞となるために。」(ロバート・F・ケネディ)

全文は以下から読める。"Robert F. Kennedy, Cleveland City Club,April 5, 1968"

Wednesday, January 21, 2009

How to be Creative:未着手

そうだ、忘れないうちにエントリーしておこう。「いかにすれば創造的になれるか」の翻訳もやんなきゃな。37箇条あって、それにいくつかの補則…。時間かかりそうだけど、ざっと読んだ感じだとデザイナーやコミュニケーションに関わる人間にとって考えさせられるとこあるので時間を見つけて翻訳してみたいと思ってます。ほほー、そんな時間あんのか。あるならウチの仕事をもっとやれよ、と言われそうですけど、まぁこういう勉強も仕事のウチなのでお許しを(ぺこり)。

Obama’s Inaugural Address

オバマさんの大統領就任演説を勉強も兼ねて翻訳中。先にエントリーを立てましたが、まだ途中です。いま3割ぐらいまで進んでいます。出来たかなってところは色を変えていってます。ちがうでしょってのがあったら教えてください。しかし話し言葉を翻訳するのは、むずかしいですねそもそもヒアリング能力が超低いから仕方ないんですが、適切な言葉を選ぶのがとてもむずかしい。つい言葉を足して意訳しすぎちゃう感じになります。このスピーチの場の雰囲気や、オバマさんの息継ぎとか、一気に話すとか、タメとか、そのあたりも、映像を見ながら徐々に修正したいと思ってます。これはあくまでも自分の勉強なので、内容を知りたい人は新聞読んでください。ちなみに僕が参照してる映像はNYタイムズの映像です。中継はCNNで見ましたがタイムズのほうがカメラの切り替えが多くて雰囲気がわかります。それはさておき就任演説を聞いた感想としては、アメリカ人の心を鼓舞する演説だったと思いましたが、思ったよりも短かったですね。回復のための具体的な道筋や指標が示されるのかなと思っていましたが、抽象的で具体性がなかったのは意外でした。そのあたり、市場は同じような感想だったのか、ダウは下げ一色になってしまったようです。■追記:Youtubeにオフィシャルの動画がアップされました。すごく画質がいいんですがズームしすぎて画面が縦揺れしていてちょっと酔いそうになります。下にも貼りましたが、一旦再生を始めるとインターフェイス右端のプルアップに「HQ」というボタンが表示されるので、それを選ぶと高画質のものが見れます。



My fellow citizens:

市民の皆さん。

I stand here today humbled by the task before us, grateful for the trust you have bestowed, mindful of the sacrifices borne by our ancestors. I thank President Bush for his service to our nation, as well as the generosity and cooperation he has shown throughout this transition.

今日、私は、私たちの前にある職務に厳粛な心を抱き、皆さんから与えられた信頼に感謝し、我々の祖先たちが支払った犠牲に対する意識を心に留めてこの場に立っています。ブッシュ大統領の我が国への貢献と、政権移行期間中の寛容と協力に感謝します。

Forty-four Americans have now taken the presidential oath. The words have been spoken during rising tides of prosperity and the still waters of peace. Yet, every so often the oath is taken amidst gathering clouds and raging storms. At these moments, America has carried on not simply because of the skill or vision of those in high office, but because We the People have remained faithful to the ideals of our forbearers, and true to our founding documents.

私を含めると44名のアメリカ人が大統領として宣誓したことになります。宣誓は、高まる繁栄の時もあれば、平和な凪の中でも行われてきました。しかし、多くはたれ込めた暗雲と、吹きすさぶ嵐の中に行われた宣誓でした。そのどの時も米国が耐え抜いてきたのは、政府中枢の能力が高かったからだけではありません。我々国民が、先人の掲げた理想に忠実で、建国の文書を真摯に受け止めていたからです。

So it has been. So it must be with this generation of Americans.

これまではそうでした。そして、この世代のアメリカ人も、そうあらねばなりません。

That we are in the midst of crisis is now well understood. Our nation is at war, against a far-reaching network of violence and hatred. Our economy is badly weakened, a consequence of greed and irresponsibility on the part of some, but also our collective failure to make hard choices and prepare the nation for a new age.

私たちが重大な危機の直中にあることは皆さんご存知のとおりです。我が国は憎悪と暴力の大規模なネットワークとの戦争中で、経済はひどく落ち込んでいています。それは一部の人々の貪欲と無責任に理由があるのも事実ですが、新時代への備えを怠り、困難な選択を後回しにしてきた一連の失敗にその原因があります。

Homes have been lost; jobs shed; businesses shuttered. Our health care is too costly; our schools fail too many; and each day brings further evidence that the ways we use energy strengthen our adversaries and threaten our planet.

家は失われ、雇用は減り、会社が潰れています。健康保険は高すぎ、学校は多くの失望を招いています。そして私たちの(大量消費するという)エネルギー利用の結果が、私たちの敵を潤し、地球を危機に陥れている、という証拠が毎日のように上がっています。

These are the indicators of crisis, subject to data and statistics. Less measurable but no less profound is a sapping of confidence across our land - a nagging fear that America's decline is inevitable, and that the next generation must lower its sights.

これらのデータや統計は、危機を示す指標です。これらほど明白ではないけれど、重要度において劣らないのが、我が国から自信が失われつつあるということです。アメリカの没落は不可避で、次の世代は目標を下げなければいけないのです。

Today I say to you that the challenges we face are real. They are serious and they are many.

私たちが直面する試練は現実です。そしてそれらは深刻で数多くの試練です。

They will not be met easily or in a short span of time. But know this, America - they will be met.

それらの危機の克服は困難で、短期間では無理です。しかしアメリカよ、これは知っておいてください。それらの危機は克服されるのです。

On this day, we gather because we have chosen hope over fear, unity of purpose over conflict and discord.On this day, we come to proclaim an end to the petty grievances and false promises, the recriminations and worn out dogmas, that for far too long have strangled our politics.

私たちがこの日この場所に集ったのは、怖れではなく希望を、争議ではなく合議を、私たちが選んだからです。この日、私たちが集ったのは、あまりに長い間、政治を停滞させてきた、狭量な不満、守られない口約束、そして古臭い教義に、引導を渡すためなのです。

We remain a young nation, but in the words of Scripture, the time has come to set aside childish things. The time has come to reaffirm our enduring spirit; to choose our better history; to carry forward that precious gift, that noble idea, passed on from generation to generation: the God-given promise that all are equal, all are free, and all deserve a chance to pursue their full measure of happiness.

私たちはいまだ若い国家です。しかし、聖書にもあるとおり、子供じみたことはやめるべき時が来たのです。不朽の魂を再確認する時が来たのです。より良き歴史を選び取り、代々受け継がれてきた高貴な理想と才覚を、次の世代へと受け継いでいくという伝統。そして、だれもが平等であり、自由であり、最大限の幸福を、制約なしに希求するに値すると、神と交わされた約束を。

In reaffirming the greatness of our nation, we understand that greatness is never a given. It must be earned. Our journey has never been one of short-cuts or settling for less. It has not been the path for the faint-hearted - for those who prefer leisure over work, or seek only the pleasures of riches and fame.

我が国の偉大さを再確認するにあたって、偉大さというのは与えられるものではないことを理解しておく必要があります。それは自ら獲得しなければならないものです。私たちの旅には近道はなく、楽が出来るものでもなかったのです。仕事より楽を好み、富と名声の悦楽だけを求めるような臆病者たちの道でもなかったのです。

Rather, it has been the risk-takers, the doers, the makers of things - some celebrated but more often men and women obscure in their labor, who have carried us up the long, rugged path towards prosperity and freedom.

むしろ、リスクを選び、実践し、何かを作る者たちがこの旅を担ってきた。一部に名声を得る者もいたが、それは目立たない労働をこなす男と女たち。彼らが長く困難な道を乗り越え、繁栄と自由をもたらしてくれたのです。

For us, they packed up their few worldly possessions and traveled across oceans in search of a new life.

私たちのために、彼らはわずかな財産を荷物にまとめ、新しい生活を求めて海を越えたのです。

For us, they toiled in sweatshops and settled the West; endured the lash of the whip and plowed the hard earth.

私たちのために、彼らは搾取に耐えて西部を開拓し、鞭打ちに耐えて硬い大地を耕したのです。

For us, they fought and died, in places like Concord and Gettysburg; Normandy and Khe Sahn. Time and again these men and women struggled and sacrificed and worked till their hands were raw so that we might live a better life. They saw America as bigger than the sum of our individual ambitions; greater than all the differences of birth or wealth or faction.

私たちのために、それはコンコード(独立戦争)、ゲティスバーグ(南北戦争)、ノルマンディー(第二次世界大戦)、そしてケサン(ベトナム戦争)で戦って亡くなった人々です。よりよき生活を求め、犠牲もとわず争いそして働いてきたこれら男女のことです。彼らにとってアメリカは単なる個人の集まりより大きく、生まれや富や思想の違いよりも大きかったのです。

This is the journey we continue today. We remain the most prosperous, powerful nation on Earth. Our workers are no less productive than when this crisis began. Our minds are no less inventive, our goods and services no less needed than they were last week or last month or last year. Our capacity remains undiminished. But our time of standing pat, of protecting narrow interests and putting off unpleasant decisions - that time has surely passed. Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America.

我々は、この旅を今なお続けています。我々は今も地球上で最も繁栄し、力をもった国です。我々の労働者の生産性が、危機以前より下がったということはありません。我々の製品やサービスの質が、先週より、先月より、ましてや去年より劣るということはありません。我々の能力は今なお高い。しかし、過去にしがみつき、狭い利益にこだわり、面倒な決定を後回しにしつづけられた時代は終わりました。今日から、我々は立ち上がり、かぶった埃を払い、アメリカを再創造する仕事に取りかからねばなりません。

For everywhere we look, there is work to be done. The state of the economy calls for action, bold and swift, and we will act - not only to create new jobs, but to lay a new foundation for growth. We will build the roads and bridges, the electric grids and digital lines that feed our commerce and bind us together. We will restore science to its rightful place, and wield technology's wonders to raise health care's quality and lower its cost. We will harness the sun and the winds and the soil to fuel our cars and run our factories. And we will transform our schools and colleges and universities to meet the demands of a new age. All this we can do. And all this we will do.

どこを見回しても、なすべき仕事が山積しています。経済状況は、大胆かつ迅速な行動を必要としています。我々は実行します。雇用を創出するだけではなく、成長に必要な基礎を築くということを。我々は築きます。新たな道と橋を。新たな電力網とデジタル回線を。これらが我々の商業を繋ぐのです。我々は科学にふさわしい地位を与え、技術革新をもとに医療の質を上げ、医療費を下げます。太陽、風、そして土壌から、車と工場に必要な燃料を得ます。そして新世代を育て上げられるよう、学校および大学を変革していきます。我々にはこれら全てを実行する能力があり、そして我々はこれら全てを実行します。

Now, there are some who question the scale of our ambitions - who suggest that our system cannot tolerate too many big plans. Their memories are short. For they have forgotten what this country has already done; what free men and women can achieve when imagination is joined to common purpose, and necessity to courage.

我々の目標の高さに疑念の抱く人もいるでしょう。我々のシステムはあまりに多くの大計画を実行に移す余地などないのだと。彼らは失念しています。この国がすでにどれだけのことを成し遂げてきたのかを。自由な男女の想像力が、共通の目的、必要性、そして勇気とあわさった時、それほどの成果が得られてきたのかを。

What the cynics fail to understand is that the ground has shifted beneath them - that the stale political arguments that have consumed us for so long no longer apply. The question we ask today is not whether our government is too big or too small, but whether it works - whether it helps families find jobs at a decent wage, care they can afford, a retirement that is dignified. Where the answer is yes, we intend to move forward. Where the answer is no, programs will end. And those of us who manage the public's dollars will be held to account - to spend wisely, reform bad habits, and do our business in the light of day - because only then can we restore the vital trust between a people and their government.

皮肉屋に理解出来ないのは、状況が根底から覆ったということです。我々にあまりに長い時間を無駄にすることを強いてきた、不毛な政治談義はもうないのだということを。政府が大き過ぎるか小さ過ぎるかはどうでもいいのです。重要なのは、それがうまくいくかどうかなのです。十分な仕事があるか。十分な給与が得られるか。十分な保証が手に入るか。それらを手助けしているか。答えがイエスなら、我々はさらに手を入れます。ノーならそこでおしまいです。そして我々のうち公金を預かる者たちは、賢くそれを使い、悪癖を改め、やるべきことをやる責任があります。我々だけが、国家と国民の間の信頼を取り戻すことが出来るのですから。

Nor is the question before us whether the market is a force for good or ill. Its power to generate wealth and expand freedom is unmatched, but this crisis has reminded us that without a watchful eye, the market can spin out of control - and that a nation cannot prosper long when it favors only the prosperous. The success of our economy has always depended not just on the size of our Gross Domestic Product, but on the reach of our prosperity; on our ability to extend opportunity to every willing heart - not out of charity, but because it is the surest route to our common good.

市場が善か悪かという質問も、同様です。富みを生み出し、自由を拡大するという点で、市場に勝るものはありません。しかし今回の危機で、注意深い監視なしでは市場は制御不能に陥ってしまうということを我々は学びました。富めるもののみに富みをもたらすのでは、国全体が富むことはないのです。我々の経済の成功は、国内総生産だけで決まるのではありません。富みがどれだけ行き渡るか、意欲ありものがどれだけ機会にありつけるか決まるのです。それは慈善ではありません。公共の利益に通じる最も確実な道なのです。

As for our common defense, we reject as false the choice between our safety and our ideals. Our Founding Fathers, faced with perils we can scarcely imagine, drafted a charter to assure the rule of law and the rights of man, a charter expanded by the blood of generations. Those ideals still light the world, and we will not give them up for expedience's sake. And so to all other peoples and governments who are watching today, from the grandest capitals to the small village where my father was born: know that America is a friend of each nation and every man, woman, and child who seeks a future of peace and dignity, and that we are ready to lead once more.

共同防衛に関しても、我々は「理想か安全か」という誤った二者択一は拒絶します。我々の建国の父たちは、我々には想像するのも困難な危機に直面していても、法治と人権を約束した憲法を起草し、それらは今日までうけつがれてきたのです。これらの理想は今なお世界を照らし、我々が私利のためにそれらを諦めることなどありえません。そして国外のみなさん、大都市から私の父が生まれた小さな村に至るまで、アメリカは平和と尊厳を求めるすべての国々とすべての男女の味方です。我々は、再び指導力を発揮する準備ができています。

Recall that earlier generations faced down fascism and communism not just with missiles and tanks, but with sturdy alliances and enduring convictions. They understood that our power alone cannot protect us, nor does it entitle us to do as we please. Instead, they knew that our power grows through its prudent use; our security emanates from the justness of our cause, the force of our example, the tempering qualities of humility and restraint.

思い出してください。ファシズムと共産主義を倒した先代たちは、ミサイルや戦車だけではなく、確固たる信念とゆるぎない同盟とでそれを成したのだということを。力はそれのみでは我々を守ってはくれません。力は慎重に用いてこそ大きくなります。目的の正しさこそ、安全の泉なのです。

We are the keepers of this legacy. Guided by these principles once more, we can meet those new threats that demand even greater effort - even greater cooperation and understanding between nations. We will begin to responsibly leave Iraq to its people, and forge a hard-earned peace in Afghanistan. With old friends and former foes, we will work tirelessly to lessen the nuclear threat, and roll back the specter of a warming planet. We will not apologize for our way of life, nor will we waver in its defense, and for those who seek to advance their aims by inducing terror and slaughtering innocents, we say to you now that our spirit is stronger and cannot be broken; you cannot outlast us, and we will defeat you.

我々は、この伝統を守り続けます。我々はこれらの理念に再び導かれることで、たとえ新たな脅威に対処するのにより大きな努力が必要となってもやっていけるのです。イラクはイラク人の手に責任をもって返します。アフガニスタンには平和を取り戻します。古き友人ともかつての敵とも、我々は核の脅威を減らすべく努力していきます。そして地球温暖化の脅威とも対峙します。我々は我々の生活のあり方に対して詫びるつもりもありませんが、開き直るつもりもまたありません。そして無辜の民を殺め、テロリズムを誘導する者たち、心得よ。我々の意思はなお強く、そして折れはしないのだということを。我々こそ生き残るべき者であり、あなたたちこそ敗者だということを。

For we know that our patchwork heritage is a strength, not a weakness. We are a nation of Christians and Muslims, Jews and Hindus - and non-believers. We are shaped by every language and culture, drawn from every end of this Earth; and because we have tasted the bitter swill of civil war and segregation, and emerged from that dark chapter stronger and more united, we cannot help but believe that the old hatreds shall someday pass; that the lines of tribe shall soon dissolve; that as the world grows smaller, our common humanity shall reveal itself; and that America must play its role in ushering in a new era of peace.

我々の多彩な出自は、強みであって弱みではありません。我々はキリスト教国であり、イスラム教国であり、ユダヤ教国であり、ヒンズー教国であり、そして無神論者の国です。地球上の全ての文化と言語が、我々の国を形作っています。我々も歴史の暗黒を背負っています。南北戦争に人種差別。しかしそれを経て我々はより強く、絆はより深くなったのです。かつての憎しみは過ぎ、我々を隔てる壁が消えてなくなることを確信せずにはいられません。世界はより小さくなり、そして人類愛があらわになる。アメリカはその世界において平和の時代をもたらすという役割を演じなくてはなりません。

To the Muslim world, we seek a new way forward, based on mutual interest and mutual respect.

イスラム世界とは、ともに歩む方法をあらたに見つけて行きます。共通の目的と敬意に従って。

To those leaders around the globe who seek to sow conflict, or blame their society's ills on the West - know that your people will judge you on what you can build, not what you destroy. To those who cling to power through corruption and deceit and the silencing of dissent, know that you are on the wrong side of history; but that we will extend a hand if you are willing to unclench your fist.

西側世界との争いを求め、自らの世界の汚点を西側世界のせいにしたがる指導者は、自らの民が何を破壊できるかではなく、何を創造できるかで自分たちを判断していることを知るべきでしょう。腐敗と策略で権力の座にしがみつき、反論を封殺してきた者たちに、歴史はあなたたちが誤った側にあることを報せていると申し上げよう。しかしその握った拳を開くのであれば、我々も手を差し伸べるでしょう。

To the people of poor nations, we pledge to work alongside you to make your farms flourish and let clean waters flow; to nourish starved bodies and feed hungry minds. And to those nations like ours that enjoy relative plenty, we say we can no longer afford indifference to suffering outside our borders; nor can we consume the world's resources without regard to effect. For the world has changed, and we must change with it.

貧しい国々のみなさん、我々はあなたがたと共に働くことを約束します。農地を豊かにし、清浄な水が流れるようにすることを約束する。飢えた心と体に滋養をもたらすことを約束する。我々と同様、すでに豊かな国には、次のように申し上げます。国境の外に対して、無関心を装うことはまかり通らないのです。影響を無視して資源を浪費することも。世界は変わったのです。我々も世界と共に変わる必要あるのです。

As we consider the road that unfolds before us, we remember with humble gratitude those brave Americans who, at this very hour, patrol far-off deserts and distant mountains. They have something to tell us today, just as the fallen heroes who lie in Arlington whisper through the ages.

我々が進むべき道に思いをはせつつ、はるか彼方の砂漠や山々で今日も警戒に当たっている勇敢なアメリカ人たちに対し、謙虚に感謝することを我々は忘れません。彼らは何か大事なことを我々に教えてくれます。アーリントン[墓地]に眠る英霊たちが、時を超えて我々にささやくように。

We honor them not only because they are guardians of our liberty, but because they embody the spirit of service; a willingness to find meaning in something greater than themselves. And yet, at this moment - a moment that will define a generation - it is precisely this spirit that must inhabit us all.

我々が彼らを尊敬するのは、彼らが自由の守護者であるに留まらず、彼らが奉仕の精神を体現しているからです。自分たち自身より大事な何かがあることに、意味を見いだしているからです。そして、この世代を位置づけるこの瞬間こそ、かれらの精神を我々全員が共有する必要があるのです。

For as much as government can do and must do, it is ultimately the faith and determination of the American people upon which this nation relies. It is the kindness to take in a stranger when the levees break, the selflessness of workers who would rather cut their hours than see a friend lose their job which sees us through our darkest hours. It is the firefighter's courage to storm a stairway filled with smoke, but also a parent's willingness to nurture a child, that finally decides our fate.

そして、政府になすべきことがある以上に、アメリカを成しているのはアメリカ人自身の信念と決意にあるのだということを忘れないでください。それは堤防が決壊した時に見知らぬ人を招き入れる親切であり、友人が職を失うより自らの労働時間を削ってでもそれを友人と分かち合うという労働者の無私の精神であり、煙に満ちた階段をかけあがる消防士の勇気であり、そして子供たちを育てて行くという両親の決意なのです。

Our challenges may be new. The instruments with which we meet them may be new. But those values upon which our success depends - hard work and honesty, courage and fair play, tolerance and curiosity, loyalty and patriotism - these things are old. These things are true. They have been the quiet force of progress throughout our history. What is demanded then is a return to these truths. What is required of us now is a new era of responsibility - a recognition, on the part of every American, that we have duties to ourselves, our nation, and the world, duties that we do not grudgingly accept but rather seize gladly, firm in the knowledge that there is nothing so satisfying to the spirit, so defining of our character, than giving our all to a difficult task.

我々を待ち受ける試練も、それに対抗するための手段も新たなものです。しかし我々の成功のよりどころである、勤労、誠実、勇気、フェアプレイ、寛容、好奇、忠誠、そして愛国心は、今なお変わりません。これらは真実です。これらこそ歴史を静かに進めてきた原動力なのです。必要なのは、これらの真実への回帰です。我々に必要なのは、新たなる責任の時代です。我々は我々自身、我々の国家、そして我々の世界に対して責任があるのだという認識です。我々はこの責任を、不承不承ではなく胸をはって受け入れて行こうではありませんか。難事をやりとげる事ほど、精神を満たし、人格を確かにするものはないのですから。

This is the price and the promise of citizenship.

これこそが、市民であることの代価であり、そして約束なのです。

This is the source of our confidence - the knowledge that God calls on us to shape an uncertain destiny.

これこそが、我々の自信の源であり、まだ見ぬ運命に至る神の誘いなのです。

This is the meaning of our liberty and our creed - why men and women and children of every race and every faith can join in celebration across this magnificent mall, and why a man whose father less than sixty years ago might not have been served at a local restaurant can now stand before you to take a most sacred oath.

これこそが、我々の自由と信念の意味なのです。男女も問わず、人種も問わず、宗教も問わず、この壮大なモールに集い、わずか六十年前はレストランにも入れなかった父たちがあなたの前にたち、この最も神聖な宣誓に立ち会うことができた理由なのです。

So let us mark this day with remembrance, of who we are and how far we have traveled. In the year of America's birth, in the coldest of months, a small band of patriots huddled by dying campfires on the shores of an icy river. The capital was abandoned. The enemy was advancing. The snow was stained with blood. At a moment when the outcome of our revolution was most in doubt, the father of our nation ordered these words be read to the people:

我々がどれほど長い旅路を歩んできたか、今日という日を記憶に刻みましょう。アメリカが生まれた年、最も寒い月々、一握りの愛国者たちが凍った川縁で今にも消えそうな焚火を囲んでいました。首都は放棄され、敵は進軍し、雪は地に染まりました。革命の正否が最も不確かなまさにその時、建国の父たちはこの言葉を読み上げるよう命じたのです。

"Let it be told to the future world that in the depth of winter, when nothing but hope and virtue could survive, that the city and the country, alarmed at one common danger, came forth to meet it."

「未来に語り継ごう。希望と美徳だけが生き残るこの真冬の底で、この街とこの国が、共に危機に瀕し、ともに立ち向かったのだということを。」

America. In the face of our common dangers, in this winter of our hardship, let us remember these timeless words. With hope and virtue, let us brave once more the icy currents, and endure what storms may come. Let it be said by our children's children that when we were tested we refused to let this journey end, that we did not turn back nor did we falter; and with eyes fixed on the horizon and God's grace upon us, we carried forth that great gift of freedom and delivered it safely to future generations.

アメリカよ。共通の危機に面したこの困難な冬に、永遠に残るであろうこの言葉を、もう一度思い出してください。希望と美徳が、この身を切るような寒さとこれから来る嵐の中にあっても我々に勇気を与えてくれれるのです。我々の子供たちの子供たちに、我々は語らせるのです。我々は旅を終えることを拒み、振り返ることもたじろぐこともなかったのだと。地平をしかと見据えつつ、神の加護の元、自由という偉大な贈り物を明日の世代に引き継いだのだ、と。

Thank you. God bless you. And God bless the United States of America.

ありがとう。神の祝福が皆さんにあらんことを。そして、神の祝福がアメリカ合衆国にあらんことを。

Tuesday, January 20, 2009

Today at Noon

オバマさんの大統領就任式を段取りしているオフィシャルコミッティから、就任式で写真撮ったら就任式オフィシャルサイトから送ってねという案内が来た。こんな演出、日本じゃ考えられないな…。

ちょうど一年前、オバマさんがヒラリーさんと戦っていたときに、辻広雅文さんが「米国の政界を知り尽くしていた宮澤喜一元首相が、「米国大統領が大統領足りえるのは、あの選挙戦があるからこそでしょうね」と話したことがある。1992年、ビル・クリントン前大統領が彗星のごとく登場、パパ・ブッシュを撃破した、その頃である。1月のアイオワ州から始まり11月の本選まで続く長丁場で、立候補から就任までの期間は2年もある。その間、わずかな隙、ひと言の失言も許されない過酷で長い戦いは、大統領としての力量と度量を身に着ける鍛錬の場だと、宮沢元首相は言いたかったのだろう。(中略)彼らの討論は激烈だが、極めてロジカルであり、激闘を通じて大統領としての資格を磨きあっているようだ。(中略)共和党候補を含めた候補者全員が恐ろしく真剣で、志高く思想を語り、行政手腕に長け、コミュニケーション能力に秀でている」。とダイヤモンドで言っていたのを思い出す(出典:ダイアモンド・オンライン)。

その座に就く資質を試し尽くされるところを乗り越えて選ばれるアメリカ大統領。一方、我が国の首相は、2年前に「景気低迷時に消費税増税なんかありえない」と自信満々に語りながら、手のひらを返して次の選挙公約に増税を盛り込むと平然とした態度。この落差。悲しくなるね。二枚舌を使い、官僚や既得権を守り、改革を骨抜きにし、大衆に媚び、権力を乱用し、ろくでもない経済政策を重ねて日本を弱体化させ続ける日本の政治に、何を期待しろと言うんだと、オバマさんを見るたびに絶望を感じます。

Victory's CORE

なんて美しいバイクなんだろう。これはもうアートだな(ため息)。

Victory Motorcycle's new CORE concept bike, unveiled it at New York City IMS show last week. This concept features in cast aluminum and paired it with a 1,731cc engine in a bike that weighs only 469 pounds. Other features include aluminum alloy frame, carbon fiber fender, 3.2-gallon tank.

According to the Victory press release at the motorcycle usa, the "design team felt the name CORE perfectly reflects the essence of this concept motorcycle. It is, in fact, the raw 'core' or center of a motorcycle. There is no traditional bodywork; the motorcycle is effectively turned inside-out with its architecture completely exposed. It also accentuates the innovative frame design and the process that is used to make the cast aluminum frame: the molten aluminum is poured into a sand core, which is removed when the casting process is complete".

Monday, January 19, 2009

裁判員:拭えないなぁ

先週、裁判員制度導入の不明点について少し書いた。その中で、暴力団の抗争事件とか、傍聴席に強面の暴力団構成員がずらりと並んでたらどうすんのよ、みたいなことを書いてたんだけど、今日の朝日新聞に「裁判員、暴力団員も選ばれる?排除規定なし」っていう記事が出た。記事では、「暴力団員が裁判員に選ばれたらどうなんよ」っていう主題で書かれていて興味深い。裁判員法では、議員、警察職員、知事・市町村長、自衛官(なんで自衛隊はダメなんだろう…)と、義務教育を終えていないバカと実刑履歴の前科モノ以外は、選挙権を持つ人であれば誰でもなれる。だから暴力団員もなれちゃうけど、どうすんの?っていう話。

これに対して当の方々の反応はさまざまで、組員には裁判員の招聘があっても「無視しろと指示する」という親分さんもいれば、「被告を権力から擁護したくなる習性がある」と前向きな方もいらっしゃる。それに対して裁判所側は、裁判員は裁判長による面接で決めるし不選任権限があるので暴力団員を選ばないようにスクリーニングできるって言ってる。警察のリストを元に構成員そのものは弾けても、その影響下にあるかもしれない状態(簡単に言えば恐喝や買収ですな)を、どうやって排除するのかさっぱりわからないじゃないですか。

僕の心配は、裁判員になって、いざ担当するという事件の被告が暴力団の人だった場合に、判決後におそらく起こるだろう「お礼参り」の恐怖抜きに、真っ当な審判が出来るのか、というものだった。それに対して、裁判員制度のFAQの中に近い設問があり、「裁判員になったことで,事件関係者から危害を加えられることはありませんか」に対して、最高裁判所は「これまで裁判官や裁判所職員が事件関係者から危害を加えられたというような事件はほとんどおきていません」と言うが、それはアンタたちに手を出せばヤバイという不文律が存在しているからであって、一般人との話とは違うでしょという感じ。一応「事件関係者から危害を加えられるおそれのある例外的な事件については,裁判官のみで審理することになっています。ですから,どうぞご安心ください」としているけど、安心できません。さらに「裁判所は,安心して審理に参加していただくためにも,裁判員の安全確保に万全の配慮をします。例えば、裁判員の名前や住所は公にされないことになっていますが、万一にも事件関係者に知られることがないように、裁判員の個人情報については厳重に管理します」ってのも、今さら言うまでもないあたりまえのことだし、「裁判員が法廷や評議室へ移動する際に、事件関係者等と接触することがないよう、部屋の配置等を工夫しています」ってのも、そもそも、裁判所には傍聴人すべての動きを追えるような機能は持っていないし、裁判所の中の警備を増強したって状況は何も変わらないわけで、全然安心できません。さらに、裁判員は法廷内で顔を見せずに裁判をすることはできない、とハッキリ定められている中では、僕の心配はまったく消えないなぁ…。

あと、裁判員制度のFAQに新たな項目が追加されてて、「事業上の重要な用務を自分で処理しないと著しい損害が生じるおそれがある」場合は辞退できるようです。さらに、「上司や同僚,さらには家族や親しい人に話すことも許されないのですか」については、「ホームページ等に掲載するような場合など,裁判員候補者になったことを不特定多数の人が知ることができるような状態にすること」はダメだけど、「家族や親しい人に話すことは禁止されていませんし,上司に裁判員等になったことを話して,休暇を申請したり,同僚の理解を求めることは問題ありません」とのことなので、信頼関係が崩れるという事態は避けられそうです。でも、裁判が終わったら公表してもいいってことなんだけど、一般人に守秘義務とかがどこまで守られるかは疑問だな。

読めない漢字:時化

アースマラソンに挑戦中の寛平ちゃん。千葉を出発してからアメリカ大陸を目指してヨットで西に向かっていて、ハワイぐらいのところまで一旦南下してから北西に向かおうとしています。毎日欠かさずに「いまこんな感じやでー」っていうリポートが太平洋のど真ん中から届くのですが、昨日ぐらいから天候が変わってしまって、いま大荒れの中を進んでいるようです。その報告の題名が「時化」。「え?じか?じかってなに?」って思った僕は馬鹿です。はい(しょぼーん)。RSSリーダーで「時化」って表示されたときは読めませんでしたが、サイトにアクセスして写真を見て「あ、シケだ!」と思い出しました。最近、新聞などでも「時化」とは表記しないからか、すっかり忘れてました。「時化」は「シケ」です。はい。覚えました。もう間違いません。それはさておき、昨日、寛平ちゃんからの報告に、ちょっと心を動かされる言葉がありました。とてもいい言葉です。僕、こういう寛平ちゃんが好き。以下に引用しておきます。

寛平和尚の一言:「ひっきゃん!この船は宝船やねん!いっぱい宝つんだ宝船やねん。ロスについたらその宝物が見れる『感動』という宝物がみれる、宝船やねん。だからつらいことがあってもその宝物がどんどん大きくなるからええねん。がんばれんねん!」。出典:アースマラソン・公式ブログ

Inline Courier: Face

すげー。すごすぎ。思わず手が止まってしまいました。これは「ベルリンで一番速い宅配便です」っていう「Inline Courier」社の広告。この強風で顔変形という手法って最近CMでも見るようになったけど、このインライン社のやつが一番すごい。完全にぐにゃーとなっちゃってますね。ここまでやられると確かにインパクトがあって記憶に残るなぁ。他にも色々あるんだけど、どれもすごいので思わず見入ってしまいます。ここに貼ったのもそうだけど、ほっぺたって柔らかいんだね。自分のほっぺたを引っ張ってみても、こんなに伸びない気がするんだけどな。まぁ、こういうアイデアを実際にカタチにして、一歩間違うと気持ち悪いとなるところを「見れる」+「すごいな」に変えるところはクリエイティブの力ですね。元の写真を作るところも結構大変だったと思うけど、仕上げの段階で細かいところでレタッチ処理が行われているのがよくわかります。こういう違和感を消しながら効果を強調する処理って、すごくセンスが求められる仕事なんですが、これは微妙なところがありがらも全体としては成功してますね。ファッション写真の場合はこのレベルのレタッチでは通用しません。興味がある方は左の写真をクリックして大きめの写真でどうぞ。

Sunday, January 18, 2009

Cam with me



泣けました。大阪にいる娘に会いたくなりました。ホントにどんどん大きくなるんだよね。

Saturday, January 17, 2009

shinzlog - Clips: Mobile

このブログのアクセスログを見てると、携帯を使って読まれている方が結構いらっしゃるようなので、mofuseでこのブログの携帯版を作ってみました。iPhoneの擬似エミュレーションのページを見ると結構ちゃんと表示されてるっぽいですが、docomoとかauとかの従来機種の携帯ブラウザだと、改行とかが抜けちゃったりして読みにくいかもしれません。それにmofuseは最新の10件しかフィードしないので、あんまり役に立たないかもな…。まぁ良ければどうぞってことでQRコードも貼っておきます。それはさておき、ログを見ていて「へぇー」って思ったのがアクセスユーザーのモニター画面解像度。僕のサイトはデザイナーの方が多いのか大きなモニターサイズが3割ぐらいを占めますし、マルチモニターで超横長っていうサイズも少なくないのですが、最近の画面サイズってものすっごい多様化してるのにはちょっと驚きました。すでに86種類ですよ。もっと色々なサイズがいっぱいあるんでしょうね。傾向としてはワイドなものが増えてるというのがログからも読み取れます。1064x600とかかなり横長ですね。でも、なんだかよく分からないようなサイズがいっぱいあります。792x653とか936x944って、どんな感じなんですかね…。

資生堂のアジア戦略

このまえ、コミュニケーションのグローバルマネジメントの話を書いたけど、今朝、資生堂がアジア圏でのコミュニケーションマネジメントを本格的に着手するというニュースが出た。

ビューティという分野も、同じ商品をグローバルに展開するビジネスが可能ではあるが、クルマや家電やカメラと違って、この分野は人種や文化によって細かくコミュニケーションをチューニングしないと受け入れられない。顔かたちが違えば何を美しいと思うかも異なるし、そもそも肌のタイプが異なるのだから、マーケティングはとても複雑になる。それを「これがいまの美です!」と言い切る形で押し切っていくのはモードブランドのように独自のブランド世界を構築し、雑誌媒体への圧倒的なイメージ戦略と、突出した売り場づくりが必要になる。ディオールやシャネルのように、ビューティ分野だけではなく、モードも含めたブランド価値を統合的に動かせる一部の企業体は、その資産を最大活用する戦略でマーケットを拡大してきたが、それには莫大な資金と、管理していく強力な社内体制が必要であり、これまで日本の企業は中々踏み出せなかった。

もちろんイメージ戦略を統一すれば成功するわけではない。重要なのはプレス機能(広報)と売り場(顧客体験)だ。まず広報だが、ブランドとしてイメージ広告を出稿する雑誌が、特集としてどこまで詳細に商品属性を記事として伝えられるかが重要であり、それを細かく仕込んでいく広報の力が成否を分ける。だがその広報も、どの雑誌も同じような提灯記事では意味を為さず、雑誌ごとに細かく企画を立て、個々の雑誌の読者層に届くようにアピールポイントを最適化する必要がある。プレスがただの出稿管理レベルではお話にならず、そうした有効な広報企画は媒体との信頼にも繋がるので、継続することができなければならない。さらに各国ごとにセレブを巻き込んでの話題づくりなどなど、現場レベルでやるべきことは満載だ。

さらに顧客体験。ブランドイメージを前面に打ち出した斬新で印象的な売り場の設計は絶対に必要であるが、中でも重要なのはその「場」でどれだけ豊かな顧客体験を生み出せるかが成否を分ける。これを成功させるには接客する販売員のインテリジェンスを他のブランド以上に高めなければならず、その教育にも莫大な費用と時間と手間がかかる。実際、今のコスメティックは完全にサイエンスであって、どういった革新的な科学が個々の化粧品に応用されているかを訴求する戦いになっている。つまり生半可な知識しか持たない「立ちんぼ」の販売員では競争にもならない。高度な話を顧客それぞれに落とせるマヌカン教育が、実は一番大変なところかもしれない。

もちろんこれだけではない。書き出したらキリがない。だが、こういった要素を、国ごとにすべてを洗い出して方針を決め、適切に対処し、豊かなコミュニケーションを継続することが、いかに大変で複雑であるかは、これを読むあなたにも想像出来るだろう。大量に広告を投下すれば何かの流れは変わるかもしれないが、「売れ続ける」というビジネスとしての成功には何よりも現場レベルでの細かな最適化作業が絶対に必要になる。アジア圏というリージョナルなマネジメントではあるが、資生堂さんがそれに踏み切り、競争力を高めようとするのは素晴らしい取り組みだと思う。どこまで出来るのか今後の動向を見守りたい。

資生堂、「美白」売上高の1割販促に アジア強化へ20億円
資生堂は中国やタイなどアジア7カ国・地域で高級化粧品の販売を強化する。2月から美白効果のある化粧品の売り場づくりや広告に、売上高の1割に当たる 20億円を投資する。日本流の接客術も導入する。アンチエイジング(抗加齢)効果を期待できる商品でも同様の販売促進策を展開する。資生堂は中国、香港、台湾、タイ、マレーシア、シンガポール、韓国の百貨店に約700カ所の売り場を持つ。美白化粧品4ブランドの陳列棚やポスター作製などの売り場づくりや広告・宣伝はこれまで国・地域・ブランドでばらばらだった。日本を含めて9月末まで、これを一本化する。美白のクリームや化粧水などの宣伝のコピーを漢字で「百年美白」(中国のみ「美白先駆」)と統一して売り込む。テレビCMなどのマス広告を主体としない高級化粧品で販促費に売上高の1割を投じるのはあまり例がないという。(08:14)
 出典:NIKKEI NET

Friday, January 16, 2009

ジョブズの人生

スティーブ・ジョブズが具合悪いらしい。「体重減少はホルモン異常のため」として辞任しない意向を示してきていたし、Appleの取締役会は、大丈夫。夏には復帰するっていう態度だけれど、市場や投資家は冷静で、スティーブが実質的に経営から離れるという情報が出た途端にAppleの株価は大きく下がった。それはスティーブ・ジョブズという一人の人間が、いかに大きな存在としてAppleという企業の価値を支えているかの証明でもあるが、その一方で、Macintoshというコンピュータを使ったことのある人なら、そんなのはあたりまえ。スティーブ抜きのAppleなんて想像すら出来ない。世界中のMacユーザーがスティーブの回復を祈っている。もちろん僕もそのひとり。そこで丸々のコピペになるけど、スティーブが元気だった2005年に、スタンフォード大学の卒業祝賀式典で、彼が自分の人生を重ねて、これから世の中に出て行く若者たちへのメッセージを自分のブログにも記録しておこうと思う。素晴らしいスピーチだ。心して最後まで読むべし。



PART 1. BIRTH
ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。

しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。


PART 2. COLLEGE DROP-OUT
こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。

ひとつ具体的な話をしてみましょう。


PART 3. CONNECTING DOTS
リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。


PART 4. FIRED FROM APPLE
2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。


PART 5. ABOUT DEATH
3つ目は、死に関するお話です。私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

              
PART 6. DIAGNOSED WITH CANCER
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。

私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。


PART 7. STAY HUNGRY, STAY FOOLISH
私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。Stay hungry, stay foolish.ご清聴ありがとうございました。


The Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios ■翻訳:市村佐登美 satomi@mediaexpress.org

Jetliner Crash in NYC

最初「墜落」って聞いたんで急いでテレビつけたけど国内ではなんも流れてない。んでタイムズとか見たら「墜落」じゃなくて「不時着」だった。しかし、これってありえない絵です。飛行機と船と人が一緒に水の中にいるって、かなりありえない状況です。しかし、ハドソンリバーってこんなに浅かったとは知らなかったな。というか、この浅さなのに、このデカいフェリーが浮かんでるというのが不思議な感じです。こういう非日常的な写真ってすごい印象に残りますな。ラガーディアで鳥を吸い込んだために飛べなくなったということだけど、よくこんなところに不時着したもんだな。地図で見ると、もうホントにマンハッタンのヨコだもんね。このパイロットは英雄になるんだろうな。A Federal Aviation Administration spokeswoman, Laura Brown, said the US Airways Flight 1549 had just taken off from LaGuardia Airport enroute to Charlotte, N.C., when it crashed in the river near 48th Street in midtown Manhattan.参照はタイムズの記事あたりとか。

追記:あ、浅いんじゃないんだ。飛行機のはねの上に人が立ってるってことか。

さらに追記:昼ごはん食べながらCNN見てたんだけど、この情報の集め方とかすごい機動力だね。機長の詳細な経歴の紹介とか、ジェット機のエンジンに鳥が飛び込むところの超スロー映像と、それを解説する専門家とかとか。とにかくこういう深さは魅力だなぁ。これは優秀な番組ディレクターがいて、その指示に従って迅速に動く優秀なスタッフがいる証拠。つまり人の仕事だ。優秀な人があっての魅力だわ。これは真似しようとしても簡単には出来ないな。

Thursday, January 15, 2009

学校を作る発想

この不況での派遣村の話とかのニュースに触れると「失業は自己責任だろ」という意識は確かに生まれます。だって僕みたいなデザイナーって何の保証もありませんからね。安定なんて、そもそもありえないわけだし、とにかく必死で努力して毎日を過ごしながら今日まで生きて来ているわけですから、派遣村で「働くっていっても、なんでもいいという訳じゃないしぃ~」とか「気に入った仕事が無いんですぅー」とかグズグズしてる人とか見ると「おみゃーなんぼのモンじゃい!」みたいな感情は生まれてしまいます。努力しない奴は嫌いだし、お腹すいてんのに「これマズそうなので違うのください」って言うかー!みたいな感情です。

だけど、こういう事態を目の当たりにしたとき、いつも世界の貧困者への支援活動の実態の話を思い出して、駄目だ駄目だと。ちょっと待てよと。彼らを見てちゃいけないんだと。彼らのことだけ見て感情に捉われると間違うぞと。そんな感じで一層懸命、自分の感情を理性で引き戻そうとしています。

ソマリアの子供(左)& 国連スタッフ(右)たとえばアフリカなどで、旱魃が続いて、飢えて飢えてどうしようもない人たちっているじゃないですか。そういう人たちを見ると僕も「かわいそうだなぁ」と思います。そして誰かが情緒的なキャンペーンを開始します。「ほっとけない!世界にはあんな貧困があるのに自分たちはこんなに飽食でどうすんだ!すぐにでもできることをやろぅ!物資を送ろー!援助しよー!」という訴えです。それに多くの人が協力してお金や衣類や食料を送る…という支援ですね。もちろんこれは正義の活動だと思います。でもね、それは近視眼的な正義であって、どこまでも無責任と隣り合わせなんだよね。

僕は彼らに一番必要なのは衣類や食料じゃなくて「教育」だと思うですよ。そこまで困窮する前に「このままだったらダメだ。村ごとぶっ倒れるな」という予測を持てるようになればいい。その予測が立ったら即座にどうするべきかを考える知恵があればいい。政府や行政に保護を相談してみるとか、とにかく先を予測して試行錯誤するような思索を支えるのは、幾許かのお金や衣類や食料じゃなくて、やっぱり教育なんじゃないのかな。段階的・長期的な教育によるインテリジェンスの醸成。自分を社会と同時に考えられる知性を育む場づくり。そういうことの出発点として子供たちの学校を作るってコトが最優先なんじゃないか…と僕は前々から思ってきました。

だけど、そういう本当に必要な支援活動って地味なんだよね。教育環境を整えましょうって頑張って、それが軌道に乗ったとしても、その国に本当に貢献し始めるのには最低でも20年ぐらいかかる。一方、目の前には飢えた子供がいっぱいいるから、どうしてもそんな地味で悠長な施策より「手っ取り早く結果出そうぜ」となって、いつのまにか本質を忘れちゃうんだな。環境問題の刹那的な植林行為もまったく同じで、植えるまではすっごく盛り上がるわけ。だけど誰も植えた後のメンテナンスを段取りしないから、数年で元通りの砂漠に戻るという結果になるのがすごく多い。なにやってんだか、ってことです。

雇用の話でも、有効求人倍率が0.8を切っている今の日本の中で、どんなに派遣とか労働者を救済しろってミクロ視点で叫んでみても、そこに皆でどんなに手厚い対策をしてみても、そもそもの雇用機会を喚起するマクロ視点での企業の財務に向けた施策がなきゃ何も変わらないのは明白なわけ。でも、そういうマクロな視点ってわかりにくいから、今日の春闘の要求みたいに、正規雇用者の保護とベアアップを堂々と訴えて、組合側は本音のとこでは派遣とかどうでも良くて「ていうか、おまいら、いつから俺たちの仲間だっけ?」という態度になる。

誰もが怒ってる。誰もが不安を抱えてる。ったいなにやってんだと誰かに言いたい。自分は一生懸命やってきた。悪いのは誰だ。アメリカか?ヘッジファンドか?外資の証券会社か?日本政府か?官僚か?企業の上層部なのか?って、みんなそれぞれ思ってるわけです。でも、ちょっと考えれば、誰の責任でもないんだよね。これが今の社会の仕組みであって、その時代に生きているってこと。それは受け入れるしかない。さらに、そういう時代に、ただただ自己中心の欲深い自分がいて、その自分にはインテリジェンスが足りないだけなんですよ。

なんでアメ車はカッコ悪いの?

もう先があるのか無いのかサッパリ見えないアメリカの自動車業界。GMがクライスラーと合併を検討してて、系列まで含めると5万人ぐらいのレイオフか…というようなニュースも流れてきてるし、クライスラーとの話に入る前にGMはフォードとも話し合ってるから、一年後には「三菱東京UFJ」みたいに全部合体して「GMFC」っていう会社が出来てるかもしれないってのも否定できない感じにはなってる模様。そんな中で開かれたデトロイトでのモーターショー2009ですが、なんでアメリカの会社のクルマのデザインって、こんなにカッコ悪いんですかね…。上の写真はシボレーの「スパーク」。これが2010年に発売するニューモデルです!って言われてもねぇ。GMの北米事業担当のトロイ・クラーク社長は「シボレー・スパークは、抜群のスタイル、広さ、多様性を備えた車として、北米の超低燃費小型車部門に登場する。シボレーラインにスパークを加えるのは、GMが低燃費ブランドとして業界の先頭に立つことを信条としているからである(出典:carview)」と述べてるらしいんですけど、デザイン悪すぎませんか。このゴツゴツのどこか「抜群のスタイル」なんですかね。なんか、なんとかシボレーのイメージを踏襲してガッシリ見せたいという意識というか、このデザインからは逆に「クルマを小さくなんかしたくないんだよ」という本音が見えて来る気がします。

一方、GMの中では高級という位置づけのキャデラックですけど、「コンセプトカーのキャデラック『コンバージ』を公開した。モーター走行を基本にしたプラグインハイブリッドを積むラグジュアリーな2ドアクーペ」ってことらしいです。んで、デザイン以外のところで、ハイブリッドとか空力性能とか、とにかく環境に向けてやってることは素晴らしいと思うし頑張ってるんだなぁって思うわけです。だけどこれ欲しいかって言われたら「いらない」って即答します。つか、こんな「何かの冗談ですか?」っていう顔したクルマに乗りますかね。どこがラグジャリーですか。なんなんですか、このフロントグリルとでっかいキャデラックのバッジは。なんですかこの視界を悪くするエンジンスペースのもっこり感は。ありえないでしょ。横からの写真や、斜め後ろからの写真を見ると、「おー、デザイナーが描いたまんまの感じやなー」って思えるんですけど、この正面の顔とか見ると、いきなりフロントグリルの呪縛が出まくりで萎え萎え…。

こういうのを見てると、質問の仕方が間違ってたり、調査すべき内容そのものがずれてたりする「まーけちんぐりさーち」みたいな存在がプンプン匂うし、クルマ全体のフォルムやテールエンドの処理あたりは、空力性能などの制約からの必然で打ち消しようのない部分が多いので、会社の上層部とかが「もっとキャディラックな顔はないのか!」とか役員会とかでぎゃんぎゃん口出したりして、元々のコンセプチャルなデザインがずたずたにされてる気もする。逆に言うと、経営陣がそこしか口出せない人たちの集まりだから、こうも売れないクルマを作り続けてるんだと思うんだけど、間違っているかしら。

北米全土津々浦々まで強力な販売網を持ち、身勝手なデザインの新車を出しても先代からずっと家族ぐるみのお付き合いっていうセールスマンが既存顧客の買い替えを促しつつ負担の少ないローンを組んで「奥さま、素晴らしいですわー」で一定台数を売りさばき、若者向けにはピックアップやハマーみたいな「ものすっごいパワフルでございますー」ってことでHipHopなキャンペーンで「オレたち燃費なんてかんけーねー」世代をさんざん作ってきて、と。

だけどインテリジェンスのある人たちは、そんな馬鹿げた循環には乗らないし、「いいもの」って何なのかを誰よりも早く察知する。それはどこにあるのかと探したら、ラグジャリーはヨーロッパ、コンセプトはジャパン、ってことに帰着。その流れでこの「アメ車が売れません。返す気ないですけどお金貸してください」ってことかな。俺だったら数兆円の支援受けたら、速攻でポルシェとBMWのデザインチームを買収するね。とにかくフロントグリルの呪縛から抜け出さないと何も始まらない気がするけど、抜け出したら何も残らなかったりして。

Wednesday, January 14, 2009

裁判員:不安多し

少し前に「裁判員候補4割、調査票を返送 辞退希望」っていう記事を読んで、わかる、わかるよって思った。裁判員制度はあと数年で数ヶ月で日本でも始まるとされているんだけれど、自分の役目として全然しっくり来ないんだよな。裁判員制度のFAQを読んでみても(わざわざそうしたのかとまで勘繰りたくなるほど、もうありえないっていうぐらいにこのFAQのサイトは使いにくい)、どうして急にそういうことになったのかもしっくりこない。そう。行政的には平成11年から始まっているという論拠を並べているが、そもそも「急に」そうなった、というのが実感なわけで、そこに、巻き込む人たちに向けたコミュニケーションの欠落は明らかだ。世論はどんな感じなんだろう…と思っていたら上記の記事が出て「だよね」と思ってた。

んで今日、例の隣の女の子を陵辱したあと殺して遺体をバラバラにしてトイレに流して隠滅するという痛々しい事件の公判で、裁判員制度を意識した検察側のプレゼンテーションが行われたとのニュース…。どうなんだよ。耐えられるのか。それに耐えた上で、普通の市民が、冷静に被告の事情を汲み上げて、情状酌量の判断が下せるのだろうか。

裁判員に選ばれたことは口外してはいけないというのも、かなり無理があると思う。仕事を置いておいて公判に行かなきゃならないのに、その理由を仲間やクライアントに言えないってのは、明らかに裁判員に選ばれた人の社会的な信頼を損ねる結果になるのは必至。そのあたりのメンテナンスを国がしてくれるはずもないのに「国民の義務です」と、大義名分で押されても困る。

さらに、余程のことがない限りは辞退出来ないというのも困る。もしも、あくまでも、もしもの話だけど、裁判員を引き受けました。法廷に行きました。そこで提示された事件は、暴力団の抗争事件での傷害。被告人は稲川会の新宿界隈を治めてる組の若頭。抗争相手をボコボコにしたのの主犯らしい。まぁ、それはそれでいいじゃないですか。暴れて怪我させたんだから傷害ってことで。でも、傍聴席にはかなり強面の若手の構成員がずらりと並んでます。公判が始まっても、ざわめいているのを裁判長が「静粛に」といさめます。そういう場で、暴力団の構成員全員が、裁判員席に並んだこっちを見てる、っていう状況もありえるわけです。

つか、ありえねー!そんな席に座るのってありえない。絶対やだ。顔が見えないように隠されてもやだ。そんなんバレバレ。国民の義務だかなんか知らないけれど、僕は、お腹痛いですとか言って、公判が始まる前に絶対帰ります(キッパリ)。

追記:コメントでご指摘があって「数ヶ月で」のところを「数年で」って書いてたみたいです。修正しました。

Tuesday, January 13, 2009

書けない漢字:欺瞞

えーと、漢字ネタでのエントリーって久しぶりかもね。これって恥だから、ホントはエントリーしたくないのよ。だけど書けないんだわ。ってことで今日は「欺瞞」が書けませんでした。「ぎ」は詐欺の「欺」という字ってことで書けるんだけど、「まん」で躓きました。アタマの中に「満」が過ぎったから最悪。「うー」とか唸ってみたけど目偏っていうのが全然出て来ませんでした。くそー。ついでに絵にしたけど、「咄嗟」とか「憂鬱」とかもかなりヤバいかもしんない。読めるけど書けないのはマジでまずい状態です。この「漢字が書けません」ネタで言うと、僕は見逃したんだけど、去年の「太田総理」で「政治家抜き打ち漢字読み書きテスト」があったらしい。番組で出題された読み問題は「猪口」、「謀反」、「松明」、「古文書」あたり。書き取りは「もっぱら」、「いさぎよく」、「がんちく」、「ほてん」、「すぼめて」、「こそく」あたり。その場で中山泰秀議員目も当てられない醜態を曝したとのことだが、おいら全然笑えないわいな。そこで出たらしい上の問題は、「読み」の方はまったく迷いなく全部正解できるけど、やっぱり書くほうが弱ってる。「窄めて」とかたぶん咄嗟に書けないと思うし「姑息」も微妙。とにかく躊躇なく書ける漢字が減っているのは間違いない。

しかし、どうしてこんなに書けなくなってしまったのか…。PlusとかSE30とか初期のMacintoshを皮きりにキーボード入力を使い始めて20年以上になる。慣れない最初はFEPにおどおどしてたけど、今日までの20年、刻々と漢字の能力低下が進んでいたということか…。実際、今の自分の書けなさ度の高さには、情けないを通り越して呆然としてしまう。特に会議の席などで、「じゃぁ整理しますけど」とか言ってホワイトボードを前にしてマーカーとか握ったあと「あぁ、漢字が書けねー(ぽりぽり)」って誤魔化したのは一度や二度ではない。まだ全部英語で書いてるほうが気が楽なぐらいに漢字が怖かったりするし、意味不明の汗が出てしまったりする。

いい歳したオッサンが情けないよね。つーか、いま「ぷぷっ」って思ったおまいら、ホント書けんのかよ。Web業界で書き取りテストとかしたら他の業界に較べてかなり点数低そーな気がするデ(笑)。まぁ、結局やり直すしかないので、とにかく鉛筆で紙に文章を書く!これをコツコツ続けながら覚え直して行こうと思います。

Monday, January 12, 2009

Global Management

あーもー!なんで日本の広告代理店ってグローバルなクリエイティブマネジメントが出来ないんすか。「やれば出来ると思います」ってなんすか。それも今から。段取りも全部こっちでって、なんすかそれ。クライアントに言われたら考えるってことですか。ていうか、どのクライアントもコミュニケーションに今までどおりの比率でのコストは使えない、というのは、もう予測ではなく現実なわけで、その現状に対して、グローバルなクリエイティブマネジメントを行って、全体のコストを下げながらも質を落とさない、っていうのって、かなり有効な対策のひとつというか、そこ全然考えてなかったんですか。そりゃクライアントごとに抱えてる問題は別々だし、色々あるでしょうよ。だけど、そもそもこの数年、景気後退はずっとサゲで続いてきたわけだし、国内の需要が頭打ちでありつつ、輸出も途上国以外は低下の方を向いてるってのが続いてたわけで、もう当然そこ考えて色々な準備進んでるだろうって僕が思ってたのって変ですか。それに対して「クライアント側からそんな希望は出てない」ってなんすか。そういう仕組みを作って価値を提案するのがアンタたちの仕事じゃないんですか。テレビでどんな広告流すかしか考えてないんすか。

そりゃー世界各国から同じ目的のカネ集めて一本化してってことだけでも、クライアントの個別の資産を動かすんだから、内部調整とか体制づくりとか、むちゃくちゃ大変ですよ。さらに集めてから何を作るかも大変だわな。そこを越えて作れたとしても、それを配ることだけでも、ただの配布じゃないからね。ウリと仕入れを立てたりで決算上の扱いの部分をうまくやるのが前提だし、ガイドラインも10言語ぐらいは作らなきゃならん。さらに効果検証するってところまで考えたら、もう気が遠くなるようなことですよ。というか、ものすっごい大変です。だけど、そこやってかないで何やるんすか。下請けと孫請けを叩いて予算縮小の穴を乗り切るってことしか考えてないってことですか。ていうか海外のエージェンシーはみんなグローバルなクリエイティブマネジメントを必死でやろうとしてるし、すでに新たなガイドラインを配布し始めてる企業もありまっせ。ぶっちゃけ僕は外資の企業はどーでもいいんです。僕は日本の企業が海外で競争力を落として欲しくないんですよ。そこに貢献したい。あーもー。日本企業のグローバルなコミュニケーションの全体のアーキテクチャを考えられる人って、もう日本の代理店にはいないんですかぁ~~~。

って、ここまで愚痴を読んで頂いてすみません。そもそもこんな泣き言みたいなことを言ってる自分がイヤだし、結局のところ人頼みにしながら解決を図ろうとしてる自分もイヤなので、自分でやります。正直ものすっごい大変なんですが叡智を備えた友人も沢山いますし(助けてくれよー)、自分なりに挑戦してみようと思います。

GRAPHIS Design Annual 2010

みなさん、GRAPHISの2010年版のデザインアニュアルの応募が19日までですよー。すぐ登録して作品をフェデックスで送ればギリギリまだ間に合います。日本からも沢山応募して、日本のデザイン力を見せつけましょー。しかしこうしてサイトがあって日本語で解説してくれてってホントに便利にな時代になりましたね。僕が何年も応募し続けて、とうとう選ばれて、デザインアニュアルに自分の仕事が掲載されるまでって、全部ファックスとかでのやりとりだったもんなー。だけど、こういう全世界から作品が集まってくるコンペティションに応募し続けるっていうのは自然と自分の力を高める効果があります。有名なクライアントかどうかとか全然関係ないし、業界の変なバイアスなんかもないところで、純粋にデザインという仕事のところでのアイデアや美しさなど、自分の審美眼を鍛える意味でも安い投資だと思います。アニュアルに載ると世界中のデザイナーと知り合えたりするしね。

50年前の鳶職人

かっちょえー!これは毎日新聞の「昭和毎日」の中のひとコマ(僕、このサイトすごく好きです)で、1958年7月に撮影された東京タワー建設中の鳶職人たちの姿。

タワーを建てるにしても、作業現場の安全基準はもとより、そもそもの建築工法自体が大きく変わってしまったから、もうこんな姿は二度と見られないわけですが、パリのエッフェル塔の建設や、エンパイア・ステートビルなどのNYの摩天楼の建設なんかでも同様の写真が残されています。だけど、この東京の鳶職人が一番かっこいい。そういう外国の写真ってだいたい建物の内側というか足場側から撮影されてるんだけど、この写真ってヘリコプターから撮られてて、風とかかなり強く吹いてると思われるんだけど、なんなんですかこのノンビリした雰囲気は…。良く見ると鉄骨の一番上に立ってる人の足元は中抜けですよ。つまり「■」じゃなくて「□」な鉄骨なわけで、その細い両角に足を置いて立ってたりするわけですが、どう見ても命綱っぽいものが見当たりません。「超絶!素手で鉄塔!決死の登頂作戦!」な状況なのに「日常!鉄塔でいつもの一服!休憩の図」になっとる…。彼らの辞書には「落下する」という状況は載っていないみたいです。僕は基本的に高いところがダメなので、これ見てるだけでお尻がむずむずするんですが、とにかく明日からは東京タワーが違って見えそうです。かしこ。

Thursday, January 08, 2009

08 Jan 2009

なんかやっぱりダメかも。この工事現場の横で騒音に悩みながらのクリエイティブって無理かも。集中できない。ざわめきぐらいの音だけならヘッドホンでなんとか逃れられるかと思うんだけど、揺れたり、揺れにあわせての低重音の騒音って逃れられない。どなたかしばらく居候させてくれませんかね。普通の机の半分の場所でいいです。静かならどこでもいいです。まじでよろしくお願いします。

夜、トザキさんと飲みに行く。ごはんは「東京土山人」でお蕎麦でシメの懐石。こんなひっそりとした場所なのに、お客さんはいっぱいいて不況下の風景じゃない感じ。トザキさんの仕事の話とか、考えとか、悩んでることとか、どうすればいいかわからないことなどを色々と聞き、要は「コミュニケーションを作る」ということに尽きるですよ、とか色々と話す。食べ終わってから目黒川ぞいの「獅子丸」の2階のバーで壁側のコルビジェの椅子に座って飲む。このバーは最近良く行ってる店で去年projectorの田中さんともここでしこたま飲んだ。しかしあの時間でありながらも、次々客が来てて常に満席な感じ。知らない人たちだけど隣の方々も後ろに座ってる方々も、なんとなく聞こえてくる皆さんの会話は不景気話が多い。いつ自分に不況がのしかかってくるか、みんな不安なんだよね。トザキさんとは不況の話ではなく、どう仕事の幅を広げていくかについて色々と話す。Hondaの案件の話でプスプス刺してみたり、65歳までFlashやって生きていくんかって突っ込みまくったり、話が尽きない感じ。気がつくとかなり飲んでた。帰宅27時。トザキさん、深夜までこんなオッサンにつきあってくれてありがとう。

深夜の読文

昨夜は夜更かししてしまいました。普段は枕元に置いてある本を手にしてベッドに入り、ある程度読み進んでキリの良いところで電気を消して寝るか、時には読んでいる最中にそのまま寝てしまったり、という感じなんだけど、去年の11月ぐらいからは、横になってから本を手に取らず、携帯で経済の動向や経済学の解説を読んでいる。それも胸元にノートパソコンを置いてではなく携帯で読む。なぜ携帯かと言うと、論文系ってウザいぐらいに文章がむずかしいわけ。この手の難解なモノを、あの広々としたブラウザ上で表示して、文字で埋め尽くされた状態を前にすると、その段階で萎えてしまうわけ。だけど携帯だと画面上での一行の文字数が少ないので、ちょうど原稿用紙ぐらいの感じで読みやすいわけです。読書じゃなくて読文っていうスタイルかな。

そんな感じで、昨夜も携帯で読み始めて、ずぼっとハマってしまったのが12年前に書かれたクルーグマン博士の「White Collars Turn Blue」というコラム。これは「This was written for a special centennial issue of the NYT magazine. The instructions were to write it as if it were in an issue 100 years in the future, looking back at the past century.」と著者が注釈しているように「2096年から過去の100年を振り返って」というつもりで書いてあるというもので、これがむちゃくちゃ面白いというか深いというか…。クルーグマン博士が振り返ってる風に言っている指摘はどれもこれも真実が含まれているように感じかれて、一節を何度も読み直しながら考えさせられました。さらに!さらにこれを、あの山形浩生氏が「ホワイトカラー真っ青」というナイスな感じで訳しているのを見つけて、この山形訳がこれまた最高!ほんとにわかりやすくて面白くて、こちらも何度も読み直してしまいました。さらにそれ以外の山形訳にもハマってしまって、すっかり夜更かししてしまった、というわけです。学問としての経済論をそのまま講義されてると全然お手上げなんだけど、こうして色々な実体経済の話に落としながら、そこにあるパターンや理論を語ってもらえるのは、僕のようなバカには本当にありがたいことです。

Wednesday, January 07, 2009

07 Jan 2009

今日もこれと言って書くことないな。勇吾は相変わらずゆるーいシャツ着てるなぁとか、国会も相変わらずくだらない芝居やってるなぁとか、日清紡の養老先生が出るCMの受け皿のサイトのあまりのギャップというか出来の悪さに絶句したりとか、そういうのを途中途中でちら見しながら淡々と仕事してました。色々な案件が急に重なったので調整しつつって感じです。あと、今日も朝8時キッカリに「ずごーん」と来ました。ほぼ掘り返し尽くして、今日は例の巨大蟹ばさみでコンクリートの塊りをジョギジョギ潰して鉄骨との仕分け作業。さらに、昼前に突然「ずが、ずがずごががー、ずがががー」って、とんでもない掘削音が響き渡って、なんじゃこの大きな音はと見てみると、なんと隣家の角のところに立っている電信柱の足元をNTTが掘削してるではないか。つかうるさいよ。おまいらここは静けさがウリなの。いい加減にしる。あ、あと昼ごはんのあと、写真をジオラマっぽく加工してくれるサイトで10分ぐらい遊んだかな。上の写真はその結果です。写真をクリックして拡大してみてもらうと、ほほぉーって感じかもしれません。

Tuesday, January 06, 2009

06 Jan 2009

今日も朝から工事の音が鳴り響くこの辛さ。朝から「ずぉーん」が続いて、正午にピタって止まって正確に午後1時にまた「ずぉーん」と来て、午後3時にピタって止まって30分の休憩のあと、また「ずぉーん」。これが夕方5時まで続くと。はい。もう慣れたけどね。つか「もうイライラしたくないから慣れちゃぉ。文句言っても仕方ないし」っていう環境に人間って簡単に順応するんだね。動物だと、こぅは行かないと思うわ。ま、そんな環境の中で一生懸命シゴトに没頭しようとしてる自分がいる。やること満載なんだけど、そこに次々に新たなオファーや既存のクライアントからの新たな依頼なんかが舞い込んで、あたふたあたふた。

午前中に読んだ朝日新聞に坂本総務政務官が「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのか」とか言ちゃったのを「すみませんでした」って謝らされてる陳謝会見みたいなニュースが出てて、なんで謝ってるんダロとか思いつつ仕事してた。午後、テレビをつけると国会の模様をちょっと見たら鳩山由紀夫幹事長が喋ってて、なんかイラっと来て思ってることを書いたら気が済んで、またあたふたと仕事に戻る。

夜のニュースはお決まりのように、今日の鳩山さんの話を流す。どの番組も「馬鹿げたこと言ってますね」と言わないし、逆に「麻生さんは給付金でぶれてます。困ったものです」とか。いやね、ていうか、ホントに日本国民は、政治家に給付金が渡されても渡されなくてもどうでもいいのですよ。それいつなんですか?ってことが重要なわけ。さらに、人災ですよとか、この人はその職に相応しいのかとか、そんなくだらないことはどうでもいいのですよ。マニフェストとかもういいから、とにかくグランドデザインして、ロードマップ引いて、それを明示してください。

History of the Internet



"History of the internet" is an animated documentary explaining the inventions from time-sharing to file-sharing, from arpanet to internet. The history is told with help of the PICOL icons, which are also a part of my diploma. The icons are soon available for free on picol.org | Director & Animator : Melih Bilgil | Voice over : Steve Taylor | Music : Telekaster | Translation : Karla Vesenmayer | Scientific Managment : Prof. Philipp Pape | Thanks to : Barbara Bittmann, Johannes Schatz | more information is here.

大局と現実の狭間

今日から国会の衆議院本会議が始まったわけだけど、民主党・鳩山由紀夫幹事長の代表質問で、いきなり坂本総務政務官の解任要求とかしてた。だけど、そんな仕込みバリバリのネタを国会で堂々と話して演説してるアンタの方が全然おかしい。そもそも日比谷公園ですよ。失業者は全国で何万人もいるんです。前々からのホームレスも東京にはものすごく沢山おられます。なのに「急に失業者になった人だけ500人」をちゃんと集めて、事前にマスコミも呼んでて、「大変なんですぅ」と言わせて、テレビのニュースにしっかり流させて、って、どう見ても明らかに仕込みじゃないですか。

そんな大本営発表鵜呑みの記者クラブ系のマスコミに加えて、仕込みバレバレの中で「作られた悲惨」のニュースより、実際にそこに行って、その仕込まれた状況を見て「本当にまじめに働こうとしている人たちが日比谷公園に集まってきているのか」と思わず口をついて出た坂本総務政務官の感想というか呟きの方が真実に決まってるじゃんよ。っていうか鳩山さんは日比谷公園に行ったわけ?どうせなら家でおにぎり作って持ってって、寒い中で座って一緒に朝まで色々話を聞いてから言えよ(それは社民の福島とか辻元みたいなヒステリー軍団の担当か)。

あーウザい。政治ゴッコが超ウザい。そもそも企業は給与を払うだけで社員の住宅の保証なんかしないわけで、アパート借りる人もいれば実家から通う人もいるわけだし、そこは自己裁量の世界で、限りなく個々の問題と思われるミクロな話を、「金融破綻で株価落ちて円高進んで実体経済に影響出て景気後退なんで失業対策どうする」っていうマクロな話に持ち出すこと自体が、もう大衆迎合してますって姿なわけで、おまいらバカかよ。

もちろん麻生政権はアカンよ。隣の中国では11月には約54兆円の景気対策(ほとんど中身は公共事業で、鉄道などのインフラ以外は、北京オリンピック各種施設の再活用も頓挫してるぐらいだから10年後には無駄遣い!となる可能性は高いけど)をまとめて即座に動かし、その上で給付金を配布したりと、まぁ普通に「危機」ってものに対応するスピードは持ってるわけ。日本はこういう初動が、いつもとんでもなくのろい。そういう世界の速度についていけないのが幸いしてサブプライム問題の損失が少なかったんだ、みたいな意見もあるけど、それって泣きたくなるほど情けない言い訳なわけで、本質に対処対応できない与党も、ねじれ国会を利用してそういう日本の鈍さを増長してる民主党も、大阪のオカンみたいにぎゃんぎゃん吼えるだけの社民党やらその他の野党も、ぶっちゃけ全員逝ってヨシですよ。

交付金に対して小沢さんは「2兆円あれば」って言う。だけどさ、そうじゃなくて、それが20兆でも50兆でもいいから、いま本当に必要なのは「日本が強い状態になるためにはこう。そのためには何兆円でこうする」という大きなロードマップなわけ。だけど麻生さんはそれを「国民の生活向上」みたいな抽象論しか言えないわけで、「それではどうにもならんわな。具体策を言え」って詰め寄ったら「景気対策でみんなにお金を渡します」って、そりゃー僕だって馬鹿げた政策だと思うよ。だけど本当に国を憂いているのなら「そんな細かいことを国会に持って行くな。俺たちが議論するのは日本がどう生き残るかの話だ」と鳩山に言うでしょ。

どんな会社(政権)でも社長(首相)はビジョンと経営を同時に考えるわけだし、それを含んで個々の役員(閣僚)が責任を分担し、社員全員の前で議論するのが役員会(国会)なわけで、そこから管理(国務)や経理(財務)や営業(外交)や総務(厚生労働)が指針に沿って動くのがあたりまえなわけ。隣の中国は景気対策と同時に18兆円もの米国債を買い入れて外貨保有率で営業(外交)リスクを担保したりするわけじゃん。明らかにロードマップが存在し、その実行に向けたバランスが良いわけで、今の国会というか日本の政治がそういう風に全体としての本質的な国力向上に向けて機能していないのを見ると、ホントに日本って大丈夫なんかと思わざるを得ないです。もう日本の大企業たちは、そういう政権ゴッコとか気にせずに、勝手に横の繋がり作って潰れないように頑張るもんねって考えるの、あたりまえだと思うな。

Monday, January 05, 2009

05 Jan 2009

きたよ。騒音が。予想通りというか予定通りというか、朝から隣家の工事が再開したよ。今日は基礎の部分をばりばり引っぺがしていく工程のようです。ったくこの騒音のせいで、仕事始めの気分が全然盛り上がらない。しかし基礎つぶしだからか、今日も揺れるなー。昼メシ時に、いまどうなってるのか、工事が始まった時にベランダから撮った写真と今日の状態を並べてみた。手前の電線と手前にあるこちら側の建物あたりを基準とする感じで、出来るだけ同じ位置から同じ画角で撮ってみた。こうして上モノがなくなると、へー、お隣さんって結構広かったのねって感じ。

壊される前はそんなに頑丈な家には見えなかったけど、見比べてみると、しっかり鉄筋コンクリートな家だったわけだ。ついでにGoogle Mapの地図の縮尺で測ってみると、おおよそ20m弱x30m弱の土地だから、だいたい350平米弱ぐらい。ってことは100坪ぐらいはあるわけだ。さらにこの土地の相場価格を検索してみると、駅からの距離と近隣の環境からして坪単価499万!ってことは、お隣は土地だけで5億ですか。なんかすげーな。

去年、お隣さんでお葬式はなかったから相続のための土地売却というわけでもなさそうだし、表の工事仕様開示には賃貸物件の予定でもなさそうだし(まだわからないけどね)、お隣さんはこの不景気に古くなった邸宅を建て替えられちゃうぐらいのお金持ちってことなんだろうか。であれば、出来れば解体後の邸宅は数奇屋風の木造の家にしませんか。庭いじりのお好きな奥さまのご趣味も兼ねて植え込みなどにも凝ってみたりして、それを縁側からぽわーと眺めて暮らすってのはどうでしょうか…ってありえないんだろうなぁ。今風のデザイナーっぽいのが建って、こっち向きにずがーんと無機質な壁とか作られないことを祈るばかりだ。

って、そんなことより仕事しようぜ。はい。仕事します。ということで午後からは仕事に没頭。昨年末、頼りにしていたコピーライターと仕切っていた会社との間での契約上のトラブルがあり、ずっと一緒にやってきた某プロジェクトから降りざるを得ないという事件があり(もう僕もあの会社とは距離を置きます)、その穴埋めも兼ねての作業なので時間がかかる。19時、六本木で別件の打ち合わせ。少しずれていたので、もう一度企画の骨子を説明。外しちゃいけないポイントを再確認する。21時、お腹すいたね、ということで新美術館そばの「よし一」で鳥づくし。正月から熱くなって中堅の歳となった若手くんを鼓舞する。焼酎飲みすぎたかも。帰宅26時。

Sunday, January 04, 2009

04 Jan 2009

今日はこれと言って書くこと無いなぁ。珈琲飲みながら色々読んだり、altbaのshinzlog復旧をノンビリやってみたり。復旧は2003年の9月10月11月の半分ぐらいまでで、まだ二か月半ぐらいですけど、このゆったりしたコピペ復旧によって個々のエントリーをやっぱ読むわけです。日々の記録はやっぱり精一杯働いてたなーっていう感じでその頃の日常の風景などを思い出したりはするわけですが、途中途中にメモのような感じで結構イイこと言ってたりもして(自画自賛)、またそういうのは掘り起こしてまとめてみたら面白いかなとか思ってたりします。

それはさておき、休み中はせっせと経済論を勉強しました。クルーグマンやケインズの理論解説も出来るだけ読みましたが全然ダメです。マクロ経済を語れと言われたらもちろんお手上げです。単純に自分のいる社会がどういう経済の仕組みの中にあるのかを少しでも掴みたいという思いで色々な論説を読んでいたわけですが、おぼろげながらフレームのようなものが見えてきて、少なからず得るものはありました。これも、気づかぬうちに自分がマーケ馬鹿やブランディング馬鹿に陥らず、クライアントの本音の部分を最低限理解しながら最大効果を模索するための準備です。

あと、かなり本を読みました。古典や小説以外に、最近買って読むのは建築家の随筆が多いです。一方、マーケティングがどうだとか、コミュニケーションがどうだとか、そういういわゆる傾向ネタ本はまったく読んでません。そういう本をこの静かな休み中に読む気にはまったくなりませんし、そういう本はほとんど立ち読みで足りてしまうというか、開いても得るものがあまり見つからないケースが多く、また中には「お!」っていうネタを頂いても、それが一部分だけだったりするので買わずに帰る時の方が多く、それはそれでちょっと万引きっぽくて著作者の利益に還元できてないなーと心が痛む場合もあるのですが、そういう思惟も本屋を出る頃にはすっかり忘れてたりして、ここで懺悔させて頂きます。すみません。とにかく明日から仕事。今年もがんばります。

こちら側の問題

昨夜寝る前に、中央公論から昨年の11月27日に出されていた「俺の言うとおりにしないと、自民党は終わりだ!」という舛添要一厚生労働大臣の寄稿を携帯で読む。タイトルには自民党とあるが論旨の要点は高齢社会における医療福祉の財源と、彼が考える長寿医療制度の必然性だ。1と2を合わせて、おそらく5000字を超える彼の主張には、当事者としての切迫した思いと、苦悩の末に彼なりに見出した道筋が丹念に説かれていて説得力がある。

以前、自身のパーティで「そんなに俺を叩くなら、オマエ一回やってみろって言いたいね」と洩らしたように、大局を日和りながら物事を曖昧にして先送りしていく政治家の中では、彼はまだタテマエよりも本音のところで政務に向かっているように感じられる部分が多い。そもそも彼が大臣に就任する前に、厚生省は長年に亘ってあれだけずさんな年金行政を行っていたにも関わらず、それを監督してきたはずの過去の大臣の責任は何も問われていない。いまや最高顧問として民主党の親分の座にいる渡部恒三や羽田孜が厚生大臣を務めていた時の監督責任について彼らは何も問われていない。

そんな中で舛添要一氏は官僚を恫喝しながら確実に前進させて来ている。この実績は評価されるべきものだと僕は思っている。また彼が言う現状をスモールデザインと見る見方も同意する。官僚型グランドデザインから政治的にどう抜け出せるかという課題と、そのビジョンを国民に納得させられるリーダー不在という「向こう側」の問題もさることながら、安直に端的に受け取りたがる「こちら側」の想像力が低下欠落しているという指摘も正しい。責任は両方にあるのだから当然だ。

さらにそれを助長しているテレビ報道のあり方についての彼の苦言は、前々から僕自身もそう感じている。自分の理解できないことはすべて「おかしい」と無責任にアジるみのもんた。「庶民の感覚では」と偽善を繰り返す古舘伊知郎。さらに田原総一朗のジャーナリスト気取りには吐き気を覚える。共通するのは、感情に流されることを恥と思わず、近視眼的な問題提起でグランドデザインをずたずたにし、抜本的な解決策を考えられない自分を棚に上げて「責任者出て来い」と吼えるところだろうか。

Saturday, January 03, 2009

03 Jan 2009

天候の回復を待って、寛平ちゃんがヨットで出発。映像を見ると「いま26ノット」という声が響く。え、26ノットってすんげー速いよ(たぶん時速50キロぐらい)。かなりの強風で進んでいる模様。今夜は徹夜で行くらしい。揺れる船内でパソコンのキーボードを打ち込みむのは、相当大変だと思うんだけど、こういう時に役にたつ音声言語変換のテクノロジーを持ってる会社はなんでその技術を提供してスポンサードしないんだろうか。これも技術屋のイマジネーションが足りない一例だろう。

午前中、箱根駅伝の中継を見る。見ながら当然のように「箱根駅伝」と具具ってオフィシャルサイトを見るが、もう完全にサーバが動いていない。こんだけ広告打って、大規模キャンペーンやった結果がこれですか、と、なんか馬鹿馬鹿しくなる。仕方ないから共催の読売新聞。駅伝の特集記事があるけど淡々と情報を文字にしただけの状態。はぁーとため息つきながら、後援の日テレの駅伝サイトを見てみる。まぁ、ここが一番色々やってる。臨場感も出そうとしている感じがする。

協賛各社のサイトも見る。まずはサッポロビール。「箱根駅伝缶」という商品を前に出してる。ここで初めて「箱根応援ロード」っていうサイトを知る。これは読売のスペシャルサイトのようだ。読売のサイトに戻って見直してみるが、このサイトを認知させるのは「応援メッセージ」という一行だけであった。同じく協賛のホンダは先導車にFCXを提供しているが「応援してます」だけ。さらにミズノだけど、もうzIndexの処理がアホでグローバルメニューがトップバナーの下になってて萎える。さらに鏡餅の上の橙を飛ばしてボールをのっけるという馬鹿げた新年のご挨拶には呆れるしかない。橙とは代々を隠喩する。鏡餅を単に正月のメタファ扱いしながら「ミズノは、1世紀近くにわたって日本のスポーツ品産業をリードしてきました」って冗談じゃない。「日本の」とか言うなら日本文化をちゃんと咀嚼したクリエイティブを採用してください。とかやってるうちに東洋大が総合優勝。まぁ楽しい駅伝観戦だったのかもしれません。

その後は読書。さっきまでずっと本を読んでいた。元旦のエントリーで予想した通り、レムの言葉はすごく深い。松本清張よりも一行一節が自分には重く響くのを感じる。

Andy Hunt



Rubyist九州のワークショップにAndy Huntが送った彼自身が語るビデオによるプレゼンテーション。素晴らしい。素晴らしすぎる(日本語の字幕つき)。出典はAsiajinから。

Friday, January 02, 2009

02 Jan 2009

今日もものすごい快晴で暖かい。隣家の工事もなく、とても静かで爽やかなお正月って感じです。いやー、この静けさですよ、ウチの良さは。正月三箇日が終わったとたんにまた騒音に悩まされるのかと思うとぞっとしますけど、今はそれを思わずにこの静けさを満喫しよう。

昼前に、手掛けているラグジャリー系ブランド数社の12月のログを見てみると、クリスマスまでは順調に右肩あがり。だけど25日以降の落ち方が極端で、膝カックンって感じ。でも50万以上の高額商品のビューは減っていない。この心理、なんかわかるな。欲しいしお金もあるけど買い控えの傾向。都心のマンション価格も、とうとう1割以上の下落になった。そういえば昨年ルイ・ヴィトンがパリの店よりすごいの作るって言ってたのを撤回した銀座のヒューリックのビルってその後どうなったんだろう…。

それはさておき、夕方から、昔のaltbaに残していたshinzlogの修復作業をちょっとやってみるが、MTの構造的な状態からこのbloggerへの動的な移植は無理と判断。特にコメントが投稿された日時の指定がこっちで出来ないので再現不可能。仕方ないのでぺたぺたとコピペ移植を試みるが、最初の一ヶ月分ぐらいまで復旧させて、単純作業に飽きました(笑)。リンク先がないとかはご勘弁。また画像はハードディスクを探せば出てくると思うので、見つかり次第、再アップします。しかし、これは大変だわ。まぁ気分転換にはなるので、寝る前とか休日とか仕事で行き詰ったときとかにぽつぽつ修復していきます。しかし5年前の記録を読むと、自分でもぞっとするような生活してる。起きている間は、ホントにずーっと走り回ってたことがよくわかる。若かったというよりも責任感がエネルギー源だった気がするな。

Thursday, January 01, 2009

昭和史発掘

今日、元旦の日記に書いたので、この大作について少し書き記しておこう。これまで松本清張の著作は、かなりの数を読んできたが、中でも数年前に「神々の乱心」を読んだ(これも上巻がねっちり)あと、書かれた当時としてはタブーの域に切り込んだこの長編のプロットは、それ相当の事実証拠を手元に置いてでなければ書けないし、その意味では、前々から読破したいと思っていた松本清張の「昭和史発掘」も読むべきなんだろうなとは思っていた。一方で藤沢周平の完全読破っていうのをこの2年ぐらい取り組んでいて、それはそれで残り10冊ぐらいというところまで来ているのだが、そのせいでAmazonの「おすすめ商品」に藤沢周平以外のリコメンドが出るようになり、そこに松本清張の著作もまた出るようになり、つい「昭和史発掘」の第1巻をクリック。そのままどどどーって感じで全9巻を入手して読み進めている。

先に書いたような動機はあったが実際は、歴史の教科書には記載されないような知られざる日本の近代史を学べるのもいいかなっていうぐらいの軽い気持ちだった。だが読み始めるとものすごく濃密で重たい。読むスピードはまるで牛歩のように鈍い。「理由」の宮部みゆきなどにも受け継がれた松本清張のねっちり調【謎】は、これまで読んできた彼の著作で慣れてきたつもりだったが、この「昭和史発掘」は小説ではなくドキュメンタリーなので、一行一節が事実とその検証の積み重ね。斜め読みを一切許さない密度に圧倒される。辣腕の記者が徹底取材したノートとでも言うのだろうか。このような検察調書的なネタを、ずんずん読み進ませるところに松本清張の偉大さがあるのだろう。

さらに第1巻から個々に取り上げているトピックは異なるのに、史実だから当然なのだが話がずっと繋がっていく。いま、ようやく7巻まで読み進んだ。でも、読み進むたびに元に戻って読み直すということが続く。だけど、それによって、情景がどんどん立体的になるのだ。これは松本清張という天才が、この長編のプロットを完璧に俯瞰した上で、必要な部分に必要なことを載せる、という、とんでもないディレクション能力を発揮している証拠だろう。

だが、この史実で描かれているテーマはどれも重いものであり、さらにそうして立体的に、且つその筆致によってイマジネイティブにされると、自分の祖父が子供だった頃…という程度の、まだ手の届く時間しか経っていないのに、この昭和初期の社会に漂う多様な思想と、その実行力に驚かされる。まるで他国で起こった歴史のように思えるほど官の力は強く、それによる筆舌に尽くし難い弾圧。中でも「小林喜多治の死」は戦慄を余儀なくする。この項は本当に一行一節から思想家の絶叫が立ち上がってきて、読みながら目を背けるような感覚に何度も陥る。また、明治維新以降、諸外国から持ち込まれる多様な思想に翻弄されながら、ずっと拠りどころとしてきた「天皇」という存在を、どのように位置づければよいかに悩みに悩んだ昭和に生きた人々の苦悩も立ち上がってくる。

学校で習う「歴史」は、あくまでも年号ベースの事実の羅列で、その事件が起こった思想的背景の繋がりは深くは教えてもらえない。だが本当に知っておくべきことは脈々と流れる歴史の背景であり、どういう政治と、どういう思想が、どう行き詰ったり、どう打破しようとしたか、そしてその結果、何に繋がって行ったか、という延々と紡がれてきた人々の生きざまなのだ。その大切さをこの本は教えてくれる。それを知ることによって自分たちの時代で何が正しくて何がズレているのかを見出すことが出来る。この先も四苦八苦しながら僕はこの大作を最後まで読むだろう。そしてきっとまた読み返すと思う。それは歴史は反芻すべきことだと作者が主張していると思うからだ。