Sunday, December 28, 2008

反面教師

反面教師という言葉があるが、僕はそういう反面教師的な存在のおかげで今日があると思っている。ただそれは言葉通りの、常識が定義する「悪い見本」ということではなく、至極自分勝手な定義の上での反面教師である。気を抜くと凌駕され、屈服を余儀なくされそうな存在とでも言えばいいだろうか。若い頃は自分のボスなどの「言い切る」人をそこに位置づけた。また、そういう身近な存在だけではなくメディアの上で「言い切っている」と感じた人を手当たり次第に教師として位置づけたが、それは決して迎合ではなく、どこかで常に反面の部分を消さずに自問自答を繰り返した。独立してからも、僕はなるべく群れないようにして、出来るだけ強力な反面教師となる存在を意図的に探し出し、恣意的に強い意見を突きつけ、その反応を引き出しながら、そこにある思想や信念を反芻しながら自分の思索を固めてきた感がある。表現面というよりも思想面での仮想敵という感じだろうか。会社を経営していた時も、多面的に反面教師を脳内に存在させて前進しようとした。その一方で、自分の部下に対しては、彼らにとっての反面教師たらんと、努めて「言い切る」ように心がけた。そうした存在を自分の内側に置くこと自体は誰にも迷惑をかけないし、意図的に自分に緊張を与えるという面でも効果は高い。もちろん今でもそうした思索方法は続けている。

ところがだ。そういうことを続ける中で気づいたことだが、僕にとって反面教師という存在感を持っていた人が、ある日ふと気づくと、普通のオッサンになっているではないか。正直それに気づいた時には驚いた。それこそ恣意的にまでして意見を引き出したりしながら脳内で陵辱の限りを繰り返した人が、ある日突然にボケ老人のように思えてしまう。これをどう受け取ったらいいのだろうか…。彼の思想の根本を看破したということだろうか。単に陵辱が過ぎて飽きたという面もあるのかもしれない。しかしこれを自分に置き換えると非常に怖い状態であることに気づいて愕然としたわけだ。意識しておかないと、自分では気づかぬうちに手応えの存在しないボケ老人になってしまう。「転石苔を生ぜず」。自分を否定していくのは生易しいことではないが、恐れずに登り続けて行きたいと思う。

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